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![]() 沼城は田んぼに囲まれてます。 |
なんと2011年は4月末現在まで長距離ツーリングなしです。 いつもは3月くらいから動き出すのですが・・・ なんかバタバタしてまして、出そびれましたね・・・ しかし世間はいよいよGW。 これではいかんと、私もようやく起動です。 しかし相変わらず立ち上がりが悪い(笑) お昼ご飯を食べてからの出発になりました。 夕刻、ようやく岡山県に到着。 岡山市東区沼にやって来ました。 そんなところに何があるのかって??? ここにはですね、その昔「沼城(亀山城)」があったのです。 |
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![]() 沼城 |
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![]() 解説板 |
沼城は、備前の覇者である浦上宗景に従っていた、 中山信正によって1532年頃に築かれました。 その名の通り低湿地帯に囲まれた、ひょうたん島みたいな小山の上に築かれました。 (今でも大雨が降ると城の周囲は冠水し、城跡は沼に浮かぶ小島になるそうですよ) 中山信正の娘は、かの有名な宇喜多直家に嫁ぎました。 当時の直家は新庄山城(沼城から南東に1キロほど)にいまして、 ご近所さん?だったのです。 浦上氏からの独立を狙う直家は、なんと舅の信正を謀殺。 沼城と所領を奪います。 (奥さんは怒って自害) このあたり「謀将」の名に恥じぬ所行ですな(笑) 直家は居城を新庄山城から沼城に移します。 その後も直家は絶好調(笑) 岡山城主であった金光宗高を、毛利家と内通しているといいがかりを付けて切腹に追い込み、岡山城をも我がものとします。 1573年、直家は岡山城に居城を移します。 その後、直家から秀家に世代交代し、運命の関ヶ原。 秀家の奮闘空しく西軍は敗れ、備前岡山には小早川秀秋が入ります。 秀秋は岡山城を大改修。 この時に沼城は廃城になり、天守は大納戸櫓として岡山城に移築されました。 |
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![]() 現在、本丸跡には弁天神社があります。 |
丘のふもとにバイクを停めて、参道を登り始めます。 本丸跡へとまっすぐ続く石段は、もちろん後世につくられたものです。 |
![]() 参道 |
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![]() 本丸跡 |
本丸跡に到着しました。 本丸の北西角にはもう一段盛り上がったところがあり、 ここが天守台だったと言われています。 現在は神社の本殿があります。 |
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![]() 本丸現況 |
本丸はさほど広くありません。 平時には麓に住んでいたのでしょう。 今の本丸跡には東屋と、秀家生誕の地の碑がありました。 |
![]() 秀家生誕の地の碑 |
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![]() 宇喜多家の旗印 「児」の文字 |
宇喜多氏が自ら唱えた説に寄れば、「兒」を旗印にした百済の王子が、 備前の島に住み着き、島の名前を「児島」(現在の児島半島)と呼び、 その子孫が浮田を称した、ということです。 宇喜多というのは当て字(佳字)なんだそうです。 宇喜多家も浮き沈みの激しい家系なんで、興味のある方は調べて見てください。 面白いですよ! |
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![]() 本丸にあった解説板 |
本丸にも解説板があって、昔の絵図が載っていました。 かつての沼城の姿がよくわかるでしょ? |
![]() 沼城絵図 ほんとにひょうたん島みたいでしょ? |
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![]() その名も「浮田小学校」です。 |
沼城の西の丸下には、その名も 「浮田小学校」 があります。 重みのある名前ですね。 小学校の裏山が、沼城西の丸跡なんです。 |
![]() 断崖の上が西の丸跡 |
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![]() 沼城付近の地図 城の裏手を山陽本線・山陽新幹線が通ります。 |
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![]() ようやく初試飲 |
出発が遅かったので、この日はこれでお終い。 丸亀製麺でうどん食べて岡山で泊まりました。 岡山ローカルのスーパー「天満屋ハピーマート」で、 昨年蔵を訪ねた「室町酒造」のお酒をようやくゲット! 晩酌は「櫻室町 どぶろく」でした。 甘口のお酒でおいしかったです(^^)v まあ半分で酔っぱらって寝ちゃったんですが(笑) |
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![]() 庭瀬の風景 |
翌朝は早起き。 7:30には宿を出発しました。 目指したのは岡山市北区庭瀬。 ここには庭瀬城があったのです。 庭瀬城は備中国(現在の岡山県西半分)に勢力を誇った三村元親が、 対宇喜多の城として築いたと言われています。 天正10年(1582年)の備中高松城水攻めの時、 庭瀬城も織田(羽柴)VS毛利の戦場となりました。 井上有景が800人余りで立てこもりましたが、多勢に無勢。 羽柴勢に攻め落とされています。 一時廃城になっていましたが、1601年に宇喜多家の重臣であった戸川達安が3万石で庭瀬城に入り、城と城下町を整備しました。 戸川達安は、関ヶ原合戦の年に主君である秀家と争い(宇喜多騒動)、 宇喜多家を退去。徳川家康の元に身を寄せていました。 関ヶ原の合戦では東軍に所属して活躍。その功で独立大名となったのです。 |
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![]() 庭瀬の案内板 |
しかし戸川家は4代目の安風が9歳で亡くなります。 当然跡継ぎがいるはずもなく、戸川家は無嗣断絶となりました。 しかし安風の弟の達富が5000石で名跡を継ぎ、交代寄合として明治維新まで続きました。 戸川家亡き後の庭瀬には、久世家、藤井松平家の後に板倉重高が2万石で入り、明治維新まで続きました。 ちなみにこの板倉家は、島原の乱で戦死した板倉重昌から始まった家系なんですよ。 |
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![]() 庭瀬城跡 |
庭瀬城は低湿地に築かれたお城で、立地条件は備中高松城などによく似ています。 低湿地は大軍を動かすのが困難なため、守りやすかったのです。 |
![]() 解説板 |
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![]() 城跡には神社 |
城の周囲は今でも幅の広い堀で囲まれています。 かつての水郷の雰囲気をよく残しています。 |
![]() 広い堀で守られた城でした。 |
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![]() 石橋が残っていました |
江戸時代までの日本の物流は、主に水運によって行われていました。 意外ですが、ここ庭瀬には港(川港)があり、物流の拠点だったのです。 かつての港跡には常夜灯が復元されていました。 |
![]() 復元された常夜灯 |
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![]() 港に残る雁木 |
庭瀬は町の西南を流れる足守川の水運の拠点だったのです。 足守川上流には足守藩があり、年貢米が川船に積まれてここ庭瀬まで運ばれて来ていました。 庭瀬港で年貢米は海船に積み替えられ、海船は足守川を下って瀬戸内海へ、そして大坂へと向かっていたのです。 |
![]() ここが港だったところです。 |
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![]() 庭瀬の町絵図 町の下を流れているのが足守川 |
また庭瀬には東西に鴨方往還が通っており、鴨方往還は山陽道に接続していました。 庭瀬は陸路と水路の交わる交通の要所でもあったのです。 大いに栄えた庭瀬の町も、明治に入って現在の山陽本線が開通すると人と物の流れが変わってしまい、寂れていきました・・・ |
![]() 表御門跡 |
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![]() 城跡らしいクランク状の道路 (虎口跡) |
常夜灯近くには庭瀬城の表御門跡がありました。 表御門跡の城内側には、城跡らしいクランク状の道路が残っていました。 |
![]() かつての表御門界隈 |
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![]() 醤油屋さん 川野屋商店 |
鴨方往還沿いには趣のある町屋の建物が残っていました。 | ![]() 薬屋さんだった民家 |
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![]() 岡山の消火栓は桃太郎さん |
ふと地面を見ると消火栓の蓋がありました。 描かれていたのは桃太郎さんでした。 岡山らしくていいですね(笑) |
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![]() 撫川城跡 |
庭瀬城から西に100メートルのところに、撫川城跡があります。 えらく近くにあるんだな、と思った方もいるでしょう。 かつてはこの撫川城辺りまで庭瀬城内だったのです。 つまり庭瀬城の一部を、撫川城として独立させたのです。 この撫川城は、先に紹介しました戸川達富から始まる旗本(交代寄合)戸川家の居城でした。 お城とは言うものの、万石以下ですから陣屋扱いでした。 |
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![]() 撫川陣屋門 |
城跡には陣屋門が移築されていました。 解説板のところにはコピーではありますが城の歴史を解説したリーフレットが備え付けられていて良かったです。 |
![]() 解説板 |
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![]() 城の南面の石垣 |
城の南側と西側には石垣が残っています。 野良積みの緩い傾斜の石垣でした。 |
![]() 南西角の石組み |
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![]() 城の西面 |
お城の北西隅には、櫓台らしい石垣の張り出しがありました。 | ![]() 櫓台らしい張り出し |
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![]() 城の東側は土塁でした |
櫓台に登ってみました。 規模は小さいですが、柳川城の雰囲気によく似ています。 |
![]() 櫓台から北側を見る |
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![]() 雁木のある民家 |
お城近くの民家には雁木が残っていました。 かつては船で出入りしていたのでしょう。 貴重な風景ですよね。 現在の時刻は9:00過ぎ 7:30に岡山市内を出発してはや1時間半経過しましたが、 まだ岡山市内から出ておりません(笑) |
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![]() 庭瀬界隈 |
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2011年GWの旅(続く) | |||
2011.5.25作成 | |||
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