![]() |
|||
![]() このクランクの先には |
時刻も9:00を回りました。ようやく移動を開始します(笑) 県道151号線を南下。国道2号線を越えてさらに南下。 県道21号線をひたすら南下(笑) 県道74号線に入り、宇野線茶屋町駅をくぐって県道165号線で再び南下。 ようやく目的地である倉敷市藤戸町天城に到着しました。 ここに何があるのかって? ここには天城陣屋があったのです。 天城陣屋を築いたのは池田由成です。 池田由成の祖父は池田元助といいまして、姫路城を築いた池田輝政のお兄さんです。 元助は長久手の戦いで戦死しました。その時息子の由之はわずか8歳でした。 あまりに幼いために池田家は輝政が継ぎましたが、本来であれば由之→由成が本家筋なんですよねえ。 由之は叔父の家老となり、輝政が姫路城主になったときに今の兵庫県佐用郡で2万石余を与えられ、利神城を築きました(以前ご紹介しましたね〜) 由之は輝政→利隆→光政と仕え、下津井城番、明石城主を務めました。 池田光政は姫路から鳥取へと移封になりましたが、 由之は米子城主となって光政を支えました。 息子の由成も父の死後に米子城主を継ぎ、3万2千石を与えられました。 その後、光政は鳥取から岡山へと再び移封になり、 由成は下津井城主となりました。 しかし一国一城令により、下津井城は破却。 由成はここ天城に陣屋を築いて移り、以後明治維新まで続いています。 ちなみに由成の娘は熊子さんと言いまして、 赤穂藩家老の大石良昭に嫁いでいます。 ん?と思った方はなかなか鋭い! 熊子さんは大石内蔵助良雄のお母さんなんですヨ。 |
||
![]() 天城陣屋がありました (記念碑が建ってます) |
|||
![]() 武家屋敷門 |
現在、天城陣屋跡は倉敷天城高校のサブグランドになってまして、 遺構は跡形もございません(笑) グランド入り口のクランクに妄想をたくましくするしかありませんね・・・ サブグランドでは野球部が練習中でした。 天城高校付近は小さいながらも城下町だった訳で、 武家屋敷門や町屋が残っていまして、 江戸時代にタイムスリップした気分になるほど、 趣のある街並みです。 |
||
![]() プリン工房発見 |
天城高校の正門前に小さなぷりん屋さん発見。 きなこプリンで一休みでございます(笑) プリンおいしかったですよ。 |
![]() きなこプリンで一休み |
|
![]() 天城の町屋 |
その昔、天城の丘は島だったそうですよ〜 現在の倉敷川を挟んで対岸になる藤戸との間には、 藤戸海峡なる海峡がありまして、 江戸時代には橋が架けられて四国丸亀に向かう街道が通り、 天城の町は賑わったそうです。 藤戸は源平合戦の舞台にもなってまして、 藤戸の島に籠もる平行守に対し、 佐々木盛綱が地元の漁師に馬で渡れる浅瀬を聞き出して攻め込み、 見事にこれを破りました。 この戦いは藤戸合戦と呼ばれ、平家物語に描かれています。 これにちなんだ盛綱橋という橋もあります。 あ、藤戸といえば藤戸饅頭もありましたね(笑) オススメです。 |
||
![]() 道しるべ |
|||
![]() |
|||
![]() 瀬戸内海 (国民年金保養センターからの眺め) |
後から調べてみると、たくさん見所を見落としてはいるのですが、 この時は気がつきませんで、次の目的地へと移動を開始します。 県道165号線を南下し、県道21号線を走ります。 でねえ・・・下津井に行きたかったのに、 なぜか瀬戸中央自動車道の上に出ちゃいまして・・・ どこで間違えたんだろう? なんとかデイケアセンターみたいなとこにいました(笑) 取りあえず山から下りまして、川沿いの道を児島市街へと向かいます。 下津井電鉄の廃線跡脇を抜けて県道21号線に入って坂道を登っていきます。 で、下津井の総合ケアセンター辺りまで来たんですが・・・ これ、いくつに道分かれてるの??? ってくらい分岐してまして・・・ ここでも何回か道を間違えましたが、ようやく正解の道を選びまして、 瀬戸大橋架橋記念公園までやって来ました。 ここにはですね・・・ |
||
![]() 西の丸石垣 |
先ほどちらっとご紹介した下津井城跡があるのですよ。 下津井城は文禄役の頃、宇喜多秀家によって築かれました。 この時の城代は浮田家久。 この方、元の名前を遠藤秀清といいます。 秀清は弟の俊道とともに、備中の雄三村家親を 火縄銃による狙撃で暗殺しています。 (1566年のこと) これ、日本最古の狙撃の記録なのであります。 秀清は、この功績で浮田の姓を与えられ、宇喜多家の重臣となりました。 1603年、備前岡山には池田忠継(輝政次男)が入り、 赤穂城代であった池田長政に下津井城の改修を命じてます。 1609年には利神城から池田由之が城代で入り、輝政の死後に明石城へ。 その後もいろいろ異動がありまして、由之の子である由成が下津井城主となります。 由成の時代に一国一城令により、下津井城は破却。 由成は天城陣屋に移ったのです。 城跡は整備され、現在は瀬戸大橋架橋公園になってます。 破却されたとはいえ、石垣造りの近世城郭を偲ぶ遺構が残ってますよ。 |
||
![]() 西の丸 |
城は連郭式と呼ばれる造りになってまして、 西から西の丸、二の丸、本丸、三の丸と並んでます。 田丸城とよく似た造りですね。 下津井城は海側の石垣が立派なものでして、 海からの視角を意識して建てられているのがよく分かります。 破却前は、瀬戸内を往く船を山上から威圧していたのでしょう・・・ |
![]() 山側には鷲羽山ハイランド(遊園地)が |
|
![]() 西の丸から瀬戸大橋を見る |
|||
![]() 西の丸には岩塊が露出してました |
西の丸には岩塊が露出してました。 石垣の材料は現地調達だったようです。 |
![]() よくみるとくさびの跡が |
|
![]() 西の丸から二の丸への土橋 |
西の丸からは土橋を渡って二の丸に入っていたようです。 土橋を渡った正面には石垣がありました。 かつてはこの上に多聞櫓なんかが建っていて、西の丸方面を睨んでいたんじゃないかな? |
![]() 土橋を渡ると正面に石垣が |
|
![]() 石垣に寄ってみる |
ちょうど多聞櫓が建ちそうな幅があるんですよ・・・ | ![]() 石垣裏側 |
|
![]() 山中に残る崩れた石垣 |
藪漕ぎしながら石垣に寄って写真を撮ります。 ここまでくると城オタの執念を感じますね(笑) |
![]() 近くまで寄る |
|
![]() 大手門跡 |
西の丸から本丸までやって来ました。 本丸は想像していたよりも広かったです。 本丸の西北隅には天守台が残っていました。 ここには三重の天守が建っていたそうです。 |
![]() 本丸跡 |
|
![]() 天守台 |
今は石垣も崩れ、木が生い茂ってます。 | ![]() 寄ってみます |
|
![]() 本丸〜三の丸の通路 |
本丸から東側には三の丸への通路があります。 途中に仕切り門跡らしい石垣が残っていました。 |
![]() 三の丸 |
|
![]() 二の丸跡 |
三の丸、二の丸南側(海側)には、破却されてかつての高さはないものの、立派な石垣が残っていました。 | ![]() 三の丸南面の石垣 |
|
![]() 結構立派です。 |
全盛期は倍の高さがあったようです。 | ![]() 拡大 |
|
![]() 三の丸東側の堀切 |
三の丸の東側には、堀切を挟んで中出丸跡がありました。 | ![]() 中出丸 |
|
![]() 中出丸からの瀬戸大橋 |
中出丸の東端からは、瀬戸大橋がとてもよく見えました。 | ![]() 刻印の残る石材 |
|
![]() 下津井城縄張り図 |
下津井城も堪能したし、そろそろ移動します(笑) | ||
![]() 下津井城 |
|||
![]() 下津井城位置関係 海上交通の要所に築かれたことがよく分かります。 |
|||
![]() 呼松郵便局 |
下津井城を後にして、国道430号線に戻って北上します。 水尻の交差点で国道から左折します。 ここが呼松の集落でして、水島工業地帯を目の前にしながら古い街並みが残っていました。 昭和30年代までの呼松地区は、漁業や、倉敷の農産物を出荷する商業港として栄えていたんだそうです。 その雰囲気を残す、呼松の集落をずーっと抜けていくと、 古い洋風の建物がありました。 呼松郵便局です。 完成したのは昭和10年12月だそうで、 大工をわざわざ東京に勉強に行かせて建てられたそうです。 内部にはシャンデリアやステンドグラスがあるそうですよ。 かつての繁栄を偲ばせる建物ですねえ・・・ |
||
![]() 中田酒造 |
その呼松にあるのが 「中田酒造」 さんです。 創業は安永二年(1773年)です。 「歓の泉(よろこびのいずみ)」 が代表銘柄です。 昭和5年、陸軍大演習のために倉敷を訪れた、昭和天皇の天覧の栄に浴し、その歓びの大きさからの命名なんだそうです。 ・・・ただ、残念ながら平成21年12月に廃業されたそうです。 一足遅かった・・・ orz 一度飲んでみたかったなあ・・・ |
![]() 中田酒造遠景 |
|
中田酒造さんを訪問した時点でお昼になってしまいました(笑) 水島のうどん屋でお昼ご飯です。 7:30に宿を出発してから5時間経過・・・ まだ岡山の隣町にいます(笑) |
|||
![]() |
|||
2011年GWの旅(続く) | |||
2011.5.28作成 | |||
2011年ツーレポトップへ | |||
Home |