成羽川の支流
 さて、お昼ご飯を食べた後は、高梁川をさかのぼることにしました。
 とは言っても鮭のように泳ぐ訳ではございません
県道188号線を北上。国道2号国道429号をまたいで県道396号線へ。
 水江で高梁川の堤防の上にでました。
 そのまま堤防を上を走っていくと県道24号線に合流して総社市へと入っていきます。
 この辺りは割とのんびりした風景で、結構お気に入りなんです。
やがて国道486号と合流していったん高梁川を離れます。
 国道180号線にぶつかったところで左折。
 備中高梁を目指します。
 道は高梁川に沿ってくねくねと北上していきます。
 高梁市街の手前で国道313号線へと左折。
旧成羽町を目指します。
 日名口交差点を左折。県道35号線をしばらく走ると、
右手に大きな白いタンクが見えてきます。
 これが白菊酒造さんになります。
 白菊酒造さんは以前は成羽大関酒造という名前でしたが、
創業120年を機に改名したそうです。
 創業は明治19年です。
 「大典白菊」というお酒を造っております。
日本酒が一番おいしい、秋を代表する花の名から付けられました。
 日本酒は冬に造られるものなのですが、昔は出来上がったお酒を半年間寝かせ、
「秋上がり」として秋に出荷していたのです。
 それが明治に入り、酒税や春に行われる鑑定会のからみで、
秋を待たずに出荷されるようになったのです。
 大典というのは昭和初期に品評会で優等賞を取った記念に付けた名前だそうです。

 成羽は高瀬舟が往来する物流の要所として、またべんがら(赤色の染料)の産地として、交代寄合山崎家の陣屋が置かれた町として江戸時代を通じて栄えていました。

 やはり酒蔵を巡っていくと古い町に巡り会えますねえ・・・

白菊酒造

備中松山城
太鼓櫓跡
 さて、成羽の隣町高梁市(今は合併で同じ町に)には、
現存天守で有名な備中松山城があります。
 以前に来たことはあったんですが写真を撮ってなかったので、
もう一度訪問することにしました。
 松山城の近くのふいご峠まで一般車両は入れるのですが、10台も停められないほどの小さな駐車場しかないため、土日祝日はふもとにある駐車場にバイクを停め、シャトルバスでふいご峠まで行くことになります。
 バスに揺られて登山口にあるふいご峠へ。
 ここからは徒歩で30分弱歩くと本丸に到着します。
 

櫓台
 登りはじめてしばらく行くと、高い石垣が見えてきます。
 これが太鼓櫓の跡です。
 登城を告げる太鼓があったんでしょうねえ。
 太鼓櫓跡からは、高梁の街が良く見えました。

高梁の街を見下ろす。

大手門跡
 太鼓櫓を通過して、まだまだ山道を歩きます。
 普段の運動不足のせいで、すぐ息が切れてしまいます(笑)
 休み休み登ることにします。
 やがて何段にも築かれた石垣が見えてきます。
 これが大手門の跡です。
 ここには城内最大規模の櫓門が築かれていました。
 大手門右手には、松山城の見所の一つ、岩盤の上に築かれた石垣があります。
 そびえ立つ、といった表現がぴったりの光景です。

岩盤の上に築かれた石垣

松山城鳥瞰図

大手門を内側から見る
 松山城が築かれたのは鎌倉時代の事で、この辺りの地頭であった秋葉重信によって建てられました。
 戦国時代は庄氏の居城でしたが、三村家親が攻め落として居城としました。
 

大手門脇の二の平櫓跡

天空の城のような段々の石垣
 三村家親は毛利氏とむすび、出雲の尼子氏に従っていた備中の豪族たちを破り、
備中をほぼ統一します。
 が、隣国備前の宇喜多直家に、火縄銃による狙撃で暗殺されてしまいます。
 息子の元親は父親の敵を討とうとしますが、明禅寺合戦で敗れた上、
なんと毛利氏が宇喜多家と同盟を結んでしまいます。
 元親は毛利氏との戦いに敗れて捕らえられ、22歳で自害しました。
 松山城は毛利氏の所有となりますが、関ヶ原合戦後に防長2カ国に減転封となり、
松山は天領となります。
 その後、池田家、水谷家、安藤家、石川家と城主が替わります。
 最後は伊勢亀山から板倉勝澄が5万石で入り、明治維新まで続きました。
 この板倉家は名奉行として知られた板倉勝重(京都所司代など歴任)から続く、
板倉の本家です。
 幕末の藩主である板倉勝静は、老中として幕府を支えて活躍しました。

三の平櫓跡
 ゴールが見えてきたので、だいぶ足取りも軽くなってきました。
厩曲輪石垣

黒門跡
 松山城の櫓は、麓から順番に数字が振られています。
厩曲輪

四の平櫓跡
 左の写真は四の平櫓跡。
 麓から四番目の櫓があった場所です。

二の櫓門跡

本丸
 門も同じで、麓から番号が振られていました。
 いよいよ本丸が見えてきました。
 ちょっと疲れも取れたかな?(笑)

本丸へと向かいます

松山城天守
 松山城天守です。
 本来は天守の左下に櫓台が写っている八の平櫓から入り、天守への続櫓から天守内に入るそうです。
 八の平櫓と続櫓が失われたため、付櫓から入るように見えます。

八の平櫓跡

五の平櫓
(復元)
 初めて松山城を訪れたのは15年くらい前かな?
 その当時は天守と、天守裏にある二階櫓しか建ってませんでした。
 五の平櫓と六の平櫓は平成9年の復元だそうです。

六の平櫓
(復元)

七の平櫓跡
高梁藩は幕末に幕府側であったため、維新後に城の破却を求められましたが、何分山の上のお城のこと。
 手間が大変なので、
「壊しました〜」
って報告して放置していたそうです。
GJ!

どどーん
 しかし放置されていたので、明治末期には
あばらや
になり、倒壊寸前だったそうです。
(写真が残ってます)
 そこで保存運動が起こりますが、明治政府をはばかって
「木こり小屋を修繕しますね」
といって天守を修復したそうです。
 高梁の人ってユーモアあるよね(笑)

天守入口

天守内
 地元の人の努力により、天守が今に伝えられている訳です。
 やはり現存天守はいいもんです。

いろり

城下町が小さく見えます
 天守2階奥には御社壇がありました。
 神様が祀られています。

御社壇

太い梁
 天守の北側には二階櫓がありました。
 松山城で二階建て以上の櫓は、天守とこの櫓だけです。

天守裏にある二階櫓

岩盤の上に築かれた天守台
 天守北側にも岩盤が多数露出していて、迫力を出しています。
本丸裏手へ

九の平櫓跡(手前)と、
十の平櫓跡(奥)
 二階櫓の北側には、九の平櫓と十の平櫓があって、城の背後を固めていました。
北側からみた二階櫓

荒々しい岩盤がむき出しです
 というのも現在の松山城は、中世〜戦国時代の松山城の一部でして、小松山城と呼ばれるお城の奥には、天神丸や大松山城の遺構が残っているのです。
 そちらには搦め手門跡から出て、山道を尾根伝いに登っていくことになります。

搦め手門跡
 さて、この後米子方面に向かいたかったのですが、GWということもあり宿に空室がありませんでした。
 行き当たりばったりの旅では仕方のないところです。
 帰るのももったいなかったので、津山にあるビジネスホテル(少々高いのですが)に宿を取り、
三日目を迎えることにしました。
 結局、丸1日かけて岡山から津山まで移動しただけでした(笑)
(100キロないもんね)

松山城
2011年GWの旅(続く)
2011.5.28作成
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