江戸時代の米子城
 次の日はかなり早起き。
 7:30には宿を出発し、すぐ近くにある米子城を目指します。
 米子城は中海に面してまして、いまは湊山公園として整備されています。
 
 米子城が築かれたのは応仁の乱の頃で、伯耆守護山名教之によります。
 この城は、現在の米子城の南にある飯山に築かれました。
 その後、この辺りは尼子氏を破った毛利氏の支配地となり、出雲伯耆12万石を与えられた吉川広家により、現在の米子城は築かれました。
 関ヶ原合戦後、中村一忠が伯耆17万5千石で米子城に入城。城の整備を進め、米子城はほぼ現在の姿になりました。
 中村氏の無嗣断絶後、加藤貞泰池田由成と城主は替わり、最後は鳥取藩池田家の重臣荒尾成利が城主となり、以後明治維新まで荒尾家が米子城主となりました。

現在は湊山公園になってます

それでは登りましょうか
中海側から登ります。

本丸下の分岐点

内膳丸への道
 てくてく登っていくと、鞍部に着きます。
 ここを右折すると本丸方面で、左折すると内膳丸になります。
 本丸に逝く前に内膳丸に寄ってみることにしました。

内膳丸への道

内膳丸
 内膳丸は、湊山と峰続きである円山(標高49m)に出丸として築かれました。
 名前の由来は、中村家の家老であった横田内膳がこの曲輪の建築を担当したことによるものです。
 2重櫓が二基置かれていました。
 

内膳丸から本丸を見る
 米子城の本丸は、標高90mの湊山山頂に置かれました。
 本丸を目指して移動します。

本丸へと続く石段

虎口
 右折れの虎口を通って本丸下までやって来ました。
 脇には番所が建てられていて、本丸への出入りを監視していました。

お城には標識が整備されています

番所跡から見上げる天守台を見上げる
 番所跡から見上げると、幾重にも石垣が築かれていて、その一番上に天守台がありました。
小天守台
南側

小天守台
西側
 小天守台を巻くように歩いていくと、本丸への石段がありました。
 本丸に侵入しようとすれば、頭上には小天守がそびえている訳です。
 石段を登り切ったところには左折れの虎口があり、ここに鉄御門がありました。

本丸大手虎口
(鉄御門跡)

小天守台脇の本丸への石段

本丸から中海を見る
 折からの黄砂で空は真っ白でしたが、本丸からの眺めは最高で、中海から米子市街まで見渡すことが出来ました。
本丸から米子市街を見る

境港方面

天守台
十間×八間の大きさです。
 米子城には大天守小天守がありました。
 これは大名の家臣の城としてはあり得ないほどの格式です。
 小天守は1596年頃に吉川広家により天守として建てられたもので三重四階、大天守は1601年頃に中村一忠によって新たに建てられたもので四重五階でした。
 米子城には新旧二つの天守があり、しかも幕末まで存在していたのです。
 残っていればかなりの観光資源になったでしょが、明治になって風呂屋の薪として姿を消してしまったそうです・・・

小天守台
七間二尺×六間

本丸北側の虎口
 米子城は中海に面して水軍基地を持っており、水運も睨んだお城でした。

帯曲輪から見る

水手御門跡
 中海に面した水軍基地は、この水手御門を通った先にありました。
 また城下には山陰道が通っており、米子城は水陸両面ににらみを利かせたお城だったのです。

国道9号線がかつての城内を走ってます

二の丸井戸跡
 藩主が暮らした御殿は、江戸時代を通じて山下の二の丸にありました。
 御殿御用井戸が残っていました。
 現在の二の丸には、テニスコートがあったり、城下から移築された武家屋敷の長屋門があります。

武家屋敷の長屋門

二の丸枡形
 二の丸下には巨大な枡形がありました。
 石塁で囲まれた枡形は、松江城とよく似ていました。

枡形から二の丸を見る

枡形内
 関ヶ原合戦後に松江に入った堀尾家と、米子に入った中村家は仲が良かったそうなので、ひょっとしたら情報交換なんかしていたのかもしれませんね。
三の丸から枡形内を見る

二の丸石垣

米子城
2011年GWの旅(続く)
2011.6.4作成
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