月山富田城案内看板
 米子城に別れを告げ、国道9号線を西に向かいます。
 しばらく走ればもう島根県。安来節で有名な安来市でございます。
 安来市街で県道45号線へと左折。しばらく走ると飯梨川の川岸にでます。
 この川の川底は赤く、砂鉄があることをうかがわせます。
出雲は昔からたたら製鉄で有名ですからね〜
 のんびりとした田園風景の中を走ると、広瀬市街との分岐点がありまして、
県道をそのまま行くと再び川岸に出ます。
 そこにかかる新宮橋という橋を渡ったところに、月山富田城はありました。

山中御殿の石垣
 城の麓には道の駅「広瀬・富田城」がありまして、富田城を訪れる際の基地?になってます。
 道の駅から歩いて登るのがいいんでしょうけど、ちょっとズルをしまして山の中腹にある山中御殿から登り始めることにしました。
 山中御殿の大手門跡付近は大きく崩壊していますが、曲輪自体はかなりの広さがあり、
かつてはここに御殿などが立ち並んでいたのでしょう・・・
 また、山中御殿は三つの登城口(菅谷口、御子守口、塩谷口)からのルートが合流する地点でもあり、城内の中心といっても良い場所でした。

石段を登ります

山中御殿
広さは3000uもありました
 いつ頃この広さになったのかは分かりませんが、出雲守護の居城にふさわしい広さです。
菅谷口の虎口

山中御殿上の段からの眺め
 山中御殿は二段に分かれていて、上の段には城主の居住区が、下の段には政庁があったとされています。
井戸の跡

山中御殿跡にあった解説板
 富田城は代々の出雲守護が居城としましたが、
特に有名なのが尼子一族ですよね。
 
 富田城の築城は平安時代末期までさかのぼります。
 保元・平治の頃、平景清が築城したという伝承があるそうです。
 鎌倉時代、承久の乱(後鳥羽上皇と鎌倉幕府との戦い)の褒美として出雲・隠岐の守護となった佐々木義清が出雲にやって来て、ここ富田城を居城とします。
 南北朝時代、佐々木氏山名氏の間で抗争があり富田城の城主はたびたび入れ替わっています。
 室町時代、京極氏(佐々木氏の一族)が出雲守護となり、
その一族である尼子持久が守護代として出雲にやって来ます。
ここに出雲尼子氏が誕生します。
 持久の孫である尼子経久は、所領を横領した罪で一時富田城を追われますが、
実力でこれを奪還

まさに下克上でございます。
 急激に勢力を伸ばした尼子経久ですが、養子に出した息子に反乱を起こされるなど、その内実は厳しいものでした。
 1537年、経久は家督を孫の晴久に譲って後見します。
(長男は戦死していました)
1541年に経久は亡くなり、1543年には大内・毛利連合軍に富田城は包囲されますが、これを撃退しています(第一次富田城の戦い)
 1552年、晴久は中国八カ国の守護に任じられ、尼子氏は隆盛を極めます。
 しかし晴久の急死で尼子家中は動揺。
 中央集権を進めた晴久の政策は、国人衆を毛利側へと追いやる結果になりました。
1665年、富田城は毛利勢に再び包囲されます。
 兵糧攻めにあった富田城はよく闘ったものの翌年開城し、ここに尼子氏は滅亡します。
(その後、山中鹿之助の活躍はありましたが)
 毛利氏時代には城代が置かれ、1591年には吉川広家が入城します。
関ヶ原の合戦後に吉川氏は岩国に移り、富田城には堀尾家が入ります。
 堀尾家は1611年に松江城を築いて移り、富田城は廃城となったのです。
 

かつての富田城
 山中御殿から山道を登りはじめます。
 山中御殿と山頂を結ぶこのルートは
「七曲がり」

と呼ばれ、急峻そのものです。
 でも羽衣石城よりは楽でしたね。


山登り開始

山吹井戸
 山中には井戸も残っていました。
 木立がとぎれて三の丸下に到着。
三の丸石垣がお出迎えです。

七曲がり道

三の丸石垣
 石垣は発掘調査の後、積み直しを受けています。
 石垣を見るため、三の丸には登らずに帯曲輪を歩いていきます。

解説板

二の丸虎口跡
 二の丸の虎口跡が発掘されていました。
 左折れの虎口がよく分かります。
現在の登山道は右曲がりに付いていますが。
 虎口跡からは二の丸に登ります。

本丸との間には深い空堀

解説板
 二の丸と本丸の間には深い堀がありました。
 かつては木製の橋でつながっていたのでしょうか?

空堀の底から本丸を見る

京羅木山
 一旦堀の底に降りまして、本丸に登ります。
 本丸からは京羅木山が見えました。
第二次富田城の戦いの際、毛利勢が本陣を置いたところです。
 天気が良ければ中海が見えるらしいのですが、あいにくの黄砂で真っ白でした。

中海方面を見る
(黄砂で真っ白)

本丸
 本丸は東西に長細い形をしていました。
 右の窪地は虎口の跡です。
すっかり埋もれていますが。

虎口の跡

本丸の奥へ
 本丸の一番奥には、
勝日高守神社がありました。
 大国主命が祀られています。
 伝承によれば、城が出来る前からあったそうです。
 富田城の守護神でした。


二の丸石垣
 さて、帰路につきます。
 本丸から二の丸を見ると、ここにも石垣がありました。
 かなりの高さでした。
 先ほどの虎口跡から二の丸に登り、今度は三の丸も通って帰りました。

三の丸

花の壇方面からみる
 帰りは山中御殿跡から花の壇方面へも足を伸ばして見ました。
 この虎口なども石垣で固められていますが、尼子時代のものか、吉川時代のものか、堀尾時代のものかはいまいちよくわかんないんだそうです。

石垣

山中御殿と月山
さりげなく愛車も写ってます
 尾根を回り込む形になりまして、山中御殿跡を見ることができました。
 後ろの山が本丸のある月山です。
 さりげなく愛車も写ってますね。
ツーリングらしい一こまです(笑)
 もう一台停まってます。城好きのライダーさんって他にもいたんですね(笑)

富田城立体模型

新宮谷には館跡がたくさん
 富田城を語るのに外せないエピソードが、
新宮党の顛末

ですね。
 富田城のすぐ北に新宮谷というところがあります。
 ここに館を構えたので、新宮党という名前が付きました。

田植えが始まっていました

新宮党館跡
 館を構えたのは、尼子経久の次男である尼子国久とその一党でした。
 勇猛で知られ、尼子軍の中枢をなしていました。

慰霊碑が建ってました

田んぼのあぜ道のような道を行くと
 尼子家は各地を治めた豪族連合の性格が強く、中央集権にはほど遠いものがありました。
解説板がありまして

新宮党を祀る神社があります
 尼子国久は東出雲の国人吉田家の養子でもあり、また出雲大社も支配していたため、当主晴久は出雲一国を直接支配出来ずにいました。
 これでは家中を治められないと考えた晴久は、新宮党を粛正。
中央集権強化を図ります。
 しかしかえって家中の動揺を招いてしまい、晴久の急死もあって尼子家はあっけなく滅亡したのです。

奥には尼子国久・誠久父子の墓があるそうです。
 非業の死を遂げた新宮党を祀る神社が、館跡に建てられていました。
 このエピソードには、尼子家弱体化を狙った毛利元就が、偽書を用いて当主晴久と新宮党の間を裂いたという話もありますが、そちらの方は証拠がないそうです。

 さて、江戸時代の話になりますが、富田から松江に移った堀尾家は二代忠氏で無嗣断絶。
 尼子家の本家筋になる京極忠高が24万石で松江に入りますが、こちらも無嗣断絶。
その後に結城秀康の三男松平直政が18万6千石で入り、明治維新まで続いています。
 この松江藩の分家として、松平直政の次男近栄(ちかひで)が三万石を分知されます。
 近栄は富田城の対岸広瀬に陣屋を構え、以後広瀬藩として明治維新までこの付近を治めました。    
 

吉田酒造さん
 その広瀬の街に文政9年(1826年)に創業した吉田酒造さんがあります。
 富田城にちなんだ
「月山」
というお酒を醸しています。

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2011年GWの旅(続く)
2011.6.5作成
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