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![]() 阪九フェリー フェリーつくし |
さて。GWは中途半端なところでツーリングが終わってしまいましたが、 やはり何事も中途半端は良くない。 という訳で、再び中国地方に出かけることにしました。 今回は泉大津から阪九フェリーに乗船します。 なんと6ヶ月ぶりのフェリーなんでございます。 こんなに間隔が開くのは珍しいですねえ・・・ |
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![]() 県道32号線 道の駅「萩往還」にて |
翌朝5:00に新門司港に入港。 門司ICから高速に乗りまして関門海峡越え。 そのまま美祢ICまで高速を走りました。 国道435号線、国道490号線を走り、県道32号線から国道262号線、再び県道32号線で萩市内へと入って行きました。 |
![]() 萩駅 |
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![]() 指月山 |
JR山陰本線萩駅を見物。 洋風の建物で、とっても風情がありました。 山陰本線の駅には、いい雰囲気の駅が多いですよ。 で、目指す指月山(しづきやま)が見えて参りました。 |
![]() 橋本川 |
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![]() 萩城石垣 |
指月山一帯には萩城があります。 萩城は明治維新直前まで、毛利家36万9千石の居城でした。 関ヶ原の合戦で防長二カ国に減転封された毛利家は、ここ萩の地に城を築いて移ったのです。 |
![]() 萩城南門跡 |
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![]() 毛利輝元像 |
萩城は毛利輝元によって築かれました。 この毛利輝元もあまりいい話のない方で(笑) 関ヶ原合戦時の中途半端な進退といい、家臣の妻を取り上げて側室にした話といい・・・ 元就の不肖の孫ですなあ・・・ 息子の秀就も出来は良くなかったようで一門と揉めたりしてまして、 豊前中津にいた細川家の文書にも悪く書かれてますな。 さて、萩城は1604年から築城が開始されまして、1608年に完成しています。 指月山に構えられた詰めの城と、麓に置かれた本丸〜三の丸が一体となった平山城です。 文久3年(1863年)に長州藩庁が山口市に移されたため、明治維新を待たずにその役割を終えました。 当時の長州藩は攘夷を旨としており、海岸にある萩城では西欧列強海軍による艦砲射撃に対応できないとの判断による移転でした。 |
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![]() 南門枡形 |
さて、萩城前のおみやげ物屋さんにバイクを停めまして、城内に入ります。 みやげ物屋や萩資料館のある辺りにはかつて中堀がありましたが、埋め立てられて往時の面影はありません。 南門枡形内には中仕切りの石垣がありまして、枡形を二つに分割する厳重な構えでした。 |
![]() 中仕切りの石垣により、 二重枡形になっています。 |
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![]() 極楽橋と本丸内門跡 |
萩焼のお店などが点在する二の丸を突っ切ると、広々とした内堀端に出ます。 内堀には極楽橋があって、本丸内門へと続いています。 極楽橋左前方には天守台があり、かつてはここに五重の天守がそびえていました。 |
![]() 天守台 |
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![]() 極楽橋と指月山 |
内堀端を東に歩くと東門跡にでます。 この東門は吉川広家によって築かれました。 この東門右側には三重の東櫓があり、門の左奥には二重の時打櫓が建つ厳重な構えでした。 |
![]() 二の丸東門跡 |
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![]() 潮入門跡付近 |
東門跡から北に歩いていくと、海沿いに築かれた石垣があります。 かつて石垣の裾は波に洗われていました。 |
![]() 紙櫓台 |
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![]() 潮入門跡 |
東門跡から潮入門跡を経て北櫓まで石垣が続いています。 最北端の埋門外はすぐ海になっていました。 |
![]() 埋門跡 左が北櫓台 |
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![]() 海側から石垣を見る |
海に突き出した萩城の立地がよく分かる光景です。 | ||
![]() 満願寺跡 |
二の丸のこの辺りには満願寺というお寺がありました。 崩れた土塀が残っていました。 満願寺の南には東園という庭園がありました。 池と島が残っていました。 |
![]() 東園跡 |
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![]() 石塁 |
本丸東側には高さ3メートルほどの石塁が築かれて二の丸と区画されていました。 石塁の途中には御台所門跡があります。 通用門だったのでしょうか? |
![]() 御台所門跡 |
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![]() 着見櫓台から北を見る |
本丸南東隅には二重の着見櫓が建っていました。 二の丸東門から侵入してきた敵を睨む位置にそびえています。 また着見櫓は本丸内門に寄せてくる敵を睨む位置にもあり、その辺の配置は見事なものです。 |
![]() 着見櫓台から南東を見る |
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![]() 内門脇の石段 |
本丸大手になる本丸内門は、高さ3メートルほどの石垣で固められた枡形門です。 門跡には分かりやすい案内図が建てられていました。 |
![]() 案内板があります |
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![]() 天守台脇の雁木 |
内門を入って本丸を西に歩くと、見事な雁木を見ることが出来ます。 これは守備兵が一斉に駆け上がれるようにつくられたものです。 この雁木の先に天守台はありました。 |
![]() 天守台 |
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![]() 天守台の上 |
萩城天守は五重五階の巨大な天守でした。 一階部分は石垣から半間張り出していて、全面石落としになっていました。 明治7年まで現存していたのですが、競売にかけられて解体されてしまいました・・・ 残念ですね・・・ |
![]() 天守台から本丸内門を見る |
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![]() 天守台から西方を見る |
天守北側には付櫓が付属していました。 天守にはこの付櫓から出入りしていたのです。 |
![]() 天守台と付櫓台 |
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![]() 詰丸解説板 |
萩城背後にある指月山には、詰丸が築かれていました。 平城である山麓部分が敵に攻め落とされても、山上にある詰丸に立てこもって戦闘を継続できるようになっていたのです。 前回来たときはパスしたので、今回登ってみたのですが・・・ これがまた運動不足の私にはかなりきつかった(笑) もう止めよう、もう降りようと言いながら登りまして、ようやく到着しました。 指月山は標高140mちょっとのはずなんですが・・・また太ったかなあ・・・ |
![]() あ、詰丸だ!!! |
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![]() 詰丸石垣 |
詰丸は標高143mの指月山頂に築かれました。 小さいながらも二の丸と本丸を持ち、櫓も6つ建てられていました。 |
![]() 詰丸石垣 |
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![]() 外枡形門形式です (土塀は復元) |
詰丸の要害門跡です。 門の外に土塀で囲まれた枡形を持つ外枡形門です。 右に見える石垣上には櫓門がそびえていました。 |
![]() 枡形内 |
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![]() 詰丸解説板 |
要害門跡を入ると通路は右に折れまして、石段を登ったところが二の丸です。 | ![]() 城内側から見る |
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![]() 瀬戸崎櫓跡 二重二階の櫓でした |
二の丸隅にあった瀬戸崎櫓跡です。 今は樹木が生い茂って眺望は効きませんが、かつてはかなり眺めがよかったはずです。 |
![]() きれいな海が見えます |
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![]() 二の丸 |
詰丸には井戸がありませんでした。 二の丸と本丸には用水池があり、ここに雨水を貯める仕組みでした。 |
![]() 用水池跡 |
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![]() 本丸入口 |
二の丸と本丸の段差は結構小さいものでした。 二の丸や本丸には、くさびの跡が入った巨石がごろごろしています。 築城時に石材をここから切りだしていたんでしょうねえ・・・ |
![]() くさび跡の残る岩 |
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![]() これなんかすごいですよ くさび跡だらけです。 |
本丸には巨石がごろごろしていまして、そのすべてにくさび跡がありました。 本丸の用水池跡は大きなもので、水を汲みやすいように足場までつくられていました。 |
![]() 本丸用水池跡 |
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![]() 埋門跡 |
詰丸の本丸東側には埋門がありました。 山の中腹に築かれた山中櫓への連絡門でした。 |
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![]() 岡崎櫓跡 |
詰丸を堪能したので山を下りてきました。 本丸西側から二の丸へのルートには岡崎櫓跡があります。 この岡崎櫓を出ると、すぐ近くに八間櫓跡がありまして、この櫓の西側までかつては波が寄せていました。 今はグランドがありますが、少し歩けばきれいな浜が広がっていました。 |
![]() グランドそばにある海岸 |
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![]() 八間櫓跡 |
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![]() 厚狭毛利家萩屋敷長屋 |
南門前には厚狭毛利家萩屋敷がありまして、その長屋が現存しています。 厚狭毛利家は毛利家の家老だった家で、長門国厚狭(山陽小野田市)に所領があったので、こう呼ばれました。 厚狭毛利家は毛利元就の五男、毛利元秋から始まった家です。 |
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![]() 萩城下絵図 |
長屋には萩城下絵図や、萩城模型(若干デフォルメ気味)が展示されていました。 この日は日差しが強くてとっても暑かったので、おみやげ物屋さんで夏みかんソフトを食べました。 おいしかったですよ。 以前紹介しましたが、長門市に夏みかんの原木があったりと、山口県では夏みかんが有名なんですよ。 夏みかんを輪切りにして砂糖漬けにしたお菓子は、試食でとってもおいしかったのでお土産に買いました。 おすすめです! |
![]() 夏みかんソフト |
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![]() 萩城模型 |
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続・2011年GWの旅 つづく | |||
2011.6.26作成 | |||
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