新しくなったという看板
 9月のある晴れた日の朝、ふっと思い立って
「山登り」
に出かけることにしました。
 奈良県を通過して名阪国道をのんびりと走り、東名阪から伊勢湾岸道へ。
みえ川越ICで高速を降りまして、国道23号線を走ります。
 白バイやネズミ取りにおびえつつ名古屋市内へ。
北頭交差点を左折して県道55号線へ。
 昭和区に入ったところで県道29号線へ。
さらに県道30号線を進み、国道153号線を越え、
目的地
「喫茶マウンテン」
に無事到着しました。
(滝川小学校裏手にあります。地下鉄最寄り駅は「いりなか」か「八事日赤」)

これがマウンテンか・・・
 一見普通の喫茶店に見えますが、さにあらず。
「甘口抹茶小倉スパゲティ」
「味噌ピラフ」
「八丁味噌味かき氷(季節限定)」
など、一見しただけでどん引き魅惑のメニューが売り?
の喫茶店なのであります。
 なんか量もすごいらしいんですよね・・・
怖いもの見たさでやって来ました(笑)

これが
「甘口抹茶小倉スパゲティ」
でありんす。
 おそるおそる店内に入り、メニューを見る。
 「チョコバナナスパゲティ」
はちょっと無理そう(笑)だったので、無難に
「甘口抹茶小倉スパ」
を注文してみました・・・
  待つことしばし。
 やってきた「甘口抹茶(以下略)」とご対面。
どーみてもスパゲティに見えないその姿
額から変な汗が噴き出る・・・
「いただきまーす」
さっそく一口。

生クリームが溶けてパスタに絡む・・・

「あれ?意外にいける???」
 オリーブオイルと抹茶シロップ(!)が絡んだ太めのパスタに生クリームがねっとりと絡んでいるのですが、不気味な外見とはうらはらに、
「これもスイーツですよ」
と言われると、首をかしげつつも納得してしまう味ではある。
 小倉はどこにいるのか?
と探してみると、生クリームの山の中に埋まっていました(笑)
 もくもくと食べる私。
ちっとも減らないパスタ。
 段々ペースが落ちてきました・・・
これでもか!というくどい甘さにボリュームが重なって
「飽きてくる」
んですよね・・・
 で、胸のあたりがもやもや〜んとしてくるんですよ。
「こりゃつらいな・・・」
 マウンテン愛好家の間で、完食できずに残すことを
「遭難」
と呼ぶそうですが、遭難者が結構多いのもうなずけます。
 しかしがんばりましたよ私。
ついに完食いたしました!
(マウンテン愛好家達は完食のことを「登頂」と呼ぶそうです)

 すごい達成感でしたネ(笑)

 次回は「八丁味噌のかき氷」に挑戦してみたいです。
(ここのかき氷はシロクマ並に量が多いんですよね・・・)

看板
 これで名古屋にやって来た目的は終了してしまいました(笑)
 しかしこれだけで帰ってしまうのはあまりにもったいない。
てな訳で、長篠にでも行こうかな〜と国道153号線を東に走り出しました。
 さすが世界のトヨタのお膝元。
すばらしく整備された国道でした。
 豊田市街からは国道301号線を東へ。
途中、豊田松平ICを通過。
 松平家発祥の地、松平郷が近くにあることを思い出しました。
「こりゃ寄っていかないとね〜」
 国道301号線を走っていると、
「大給城趾公園」
の看板が。
 さっそく寄り道していくことにしました(笑)

乗元さんの墓所
 国道を外れてしばらく走ったところに案内板と、数台の駐車スペースがありまして、そこにバイクを停めて歩き出しました。
 しばらく歩くと案内板があって、右に行くと松平乗元墓所がありました。
 おそらく江戸時代に入って整備されたのでしょう。
 墓の入り口には葵の御紋が刻まれた石扉で閉ざされていました。
 松平乗元は、松平家四代当主親忠の次男で、大給松平家の祖となりました。
 大給松平家は江戸時代には譜代大名4家と多くの旗本家を出しました。
 幕末期で言うと、
西尾藩(愛知県西尾市)六万石、
府内藩(大分県大分市)二万一千石、
岩村藩(岐阜県恵那市)三万石、
龍岡藩(長野県佐久市)一万六千石
を、乗元さんの子孫が治めました。

葵の御紋です。

解説板
 一番最後の龍岡藩が結構面白かったりします。
 江戸時代を通じて領地の変更はなかったのですが、
自分の領地内をあちこち引っ越ししています(笑)
 最初、父祖の地であるここ大給に陣屋を構えましたが、
三代藩主乗真の時、交通の便が悪いというので奥殿(岡崎市奥殿町)に陣屋を移しました。
 最後の藩主であった松平乗謨(のりかた)も、文久三年(1863年)に龍岡城(長野県佐久市)を築いて移転しました。(佐久に飛び地領があった)
 この龍岡城ね、五稜郭のミニチュアなんですよ。
洋学の造詣深かった乗謨が西洋の築城術を駆使して築いたのでしょう・・・
 しかし堀幅が小さすぎて実戦使用に耐えないらしいです(笑)

三叉路まで戻ってきました。
 もと来た道を引き返し、今度は大給城跡に向かって歩き出します。
 大給城新城街道(現:国道301号線)を見下ろす要衝に築かれました。
 元々は長坂新左衛門(血槍九郎の先祖?)の居城でしたが、松平家三代当主の松平信光が攻め落とし、大給松平家の居城となりました。

整備された山道を歩きます。

城の入り口には解説板が
整備されていました。
 お城の大手には解説板が整備されていまして、お城の縄張り(設計図)もあったので、その構造もよく分かります。
ここより大給城

堀切
 解説板の先、道の両側は窪地になっていました。
 かつての深い空堀が埋まってしまったのでしょう。
 土橋跡を渡りきると、道は左に折れて虎口へと続いていました。
 虎口は狭い上に食い違いになっており、敵の侵入を許さない造りになっていました。

大手虎口

櫓台跡
 最初の虎口を抜けて右に折れて進むと、二の丸への虎口があります。
 この虎口脇には櫓台がありました。
門脇に櫓を置いて守りを固めていたと思われます。
 二の丸奥には本丸帯曲輪が見えていました。

本丸を見る

大給城縄張り図抜粋
(現地案内板より)

所々に石垣が残っています。
(本丸北面石垣)
 徳川家の関東移封までは城として使われていたようですが、移封時に廃城となって破却されたようです。
 それでも城内各所に石垣が残されていました。

コチラにも石垣

本丸と帯曲輪を分ける石垣
 二の丸から登ってくると、本丸石垣にぶつかって左に曲がり、本丸帯曲輪らしい場所に入ります。
 本丸との間には石塁が築かれていました。かつてはこの上に多聞櫓が載っていたのでしょうか?
 この石塁を回り込んだところに本丸がありました。

本丸

本丸からの眺め
 さすがに本丸からの眺望はすばらしく、
近くはIC近くの住宅地や豊田市街、
遠くは関ヶ原や伊吹山まで望むことが出来ました。

城の北側にある水の手曲輪
 大給城の特色は、城の北側に築かれた水の手曲輪の存在です。
 城の北側にある谷筋を二重のダムで塞いでいまして、谷筋の守りを固めると同時に雨水を溜めるダムとしても昨日していたようです。
 今は埋まってしまって昔日の面影はありませんが、石垣で固められたダムは健在でした。

石垣で固められたダム

ダムは2段に分けて築かれていました。
 ダムは二重に築かれていますが、上段は飲料水として、下段は生活用水として使ったのではないかな〜?と妄想をたくましくしてみました(笑)
 このダムに似た土塁による水の手曲輪は、小田原にある石垣山城や、
大分県の角牟礼城なんかでも見ましたねえ。

松平郷案内板
 かつての新城街道、現在の国道301号線をさらに走りまして、
松平郷にやって来ました。
 徳川家・松平家は、この谷間の小さな集落から始まったのですよ〜
 初代松平親氏は実在すら疑われている存在ですが、
伝承によれば徳阿彌と呼ばれる旅の僧が、松平郷の領主の娘婿として収まり、
松平親氏として近隣の領主達を切り従えていったとのことです。

娘をたぶらかしたんですかね?(笑)

松平東照宮
 松平郷の真ん中に神社がありました。
 堀と石垣に囲まれたこの神社は、
「松平東照宮」
といいます。
 岩津城(岡崎市岩津)に本拠を移すまでの松平家の館があった場所でもあり、江戸時代にこの辺りを治めた旗本松平郷松平家(250石、のち440石)の陣屋があった場所です。
 この松平郷松平家は、大正時代までここに住んでいたそうですよ。

松平氏の居館跡です。

松平東照宮
 元和五年(1619年)に松平郷松平家九代尚栄が東照宮を勧進し、これが現在の松平東照宮につながっています。
東照大権現さま産湯の井戸
(竹筒に詰めて岡崎まで運んだそうです)

高月院
松平家菩提寺です。
徳川家光が改築したそうで。
 松平郷松平家の租は、松平家初代親氏の長男(庶子と言われる)信広です。
 次男である信光(松平家3代)が岩津に本拠を移し、子孫は戦国大名化していくのに対し、松平郷松平家は土豪のまま祖先の地にとどまりました。

松平家墓所
(初代親氏、二代泰親の墓があります)

こちらは松平郷松平家当主のお墓
 その所領はわずかに250石(のち440石)でした。
 しかし江戸幕府が開かれると、徳川・松平家発祥の地を守る家柄として大名並みの扱いを受けました。
 なんと参勤交代も行っています。
 石高が低かったため、参勤費用の捻出に苦労したようで、松平東照宮境内内にある資料館(入場無料)に、その辺りの資料が展示されていました。

松平家の祖
親氏・泰親の墓

境内の様子
 親氏開基の寺と伝わる高月院には、初代親氏・二代泰親の墓の他、歴代の松平郷松平家の当主たちが、今も静かに眠っています。
壊れた石扉が置かれていました。

松平郷の風景
 新城街道(国道301号線)から松平郷への入り口を見下ろす山上に松平城があります。
 せっかく松平郷に来たので、城跡も見ていくことにしました。

松平城入り口

解説板
 西暦1400年前後に松平親氏によって築かれたと言われています。
 標高298mの山頂に本丸を置き、段々に二の丸、三の丸、四の丸が置かれ、山裾には空堀が掘られています。

松平城縄張り図

急な登りです
 日ごろの運動不足も手伝い、息を切らして坂道を登っていきます。
 やがて道は尾根筋にでます。
 ここが二の丸で、細長い曲輪になっていました。

二の丸跡

さらに登る
 二の丸からさらに登りが続きます。
 写真を見ていただくと分かりますが、結構急なんですよね(笑)

来た道を振り返る

本丸
 ようやく本丸に到着しました。
 今は木立にさえぎられて眺望は開けませんが、新城街道を見下ろせるのは間違いありません。

戦前に建てられたらしい石碑

三の丸への道
 いったん二の丸まで降り、違うルートで山を下っていくと三の丸に出ます。
 ここから枝分かれした道を行くと井戸跡へと続いていました。

三の丸

井戸への道
 三の丸からさらに下ると、荒れた社跡がある四の丸に出ます。
 四の丸の先が少し高くなっていて、櫓台と呼ばれていました。
 かつては物見台でもあったのでは?と妄想してみました(笑)

四の丸と櫓台
尾州・参州ツーリング つづく
2012.3.4作成
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