岡崎城二の丸大手門
(復興)
 さて、日も傾いてきたので松平郷を後にします。
 国道301号線から巴川沿いに県道39号線を走り、
一瞬だけ国道248号線を走って岩津城の脇を通り抜けて行きます。
 井田交差点で道を間違えますが、そのまま南下。
 島町交差点を右折して国道1号線に合流。しばらく走ると岡崎城に到着です。

岡崎城内にある本多忠勝の銅像
有名な「蜻蛉切り」を持った姿です。
 岡崎城は15世紀中頃、三河守護代であった西郷稠頼(さいごう ちかより)によって築かれました。
 やがて西郷氏は松平郷から興った松平氏に圧迫され、
松平清康(徳川家康の祖父)に岡崎城を奪われてしまいました。
 以後、岡崎城は松平家の本拠地となります。
 清康〜家康までの歴史は有名なので省略しますが、1570年に家康が居城を浜松城に移した後は、長男の信康が城主となります。
 信康は後に謀反の疑いで切腹させられ、以後は本多重次(作左ヱ衛門)や石川数正が城代を務めます。
 徳川家の関東移封後は、豊臣秀吉子飼いの田中吉政が5万7千石余で入城。
岡崎城を近世城郭へと整備します。現在の岡崎城は田中吉政時代のものなのです。

空堀
 関ヶ原の合戦後、田中吉政は筑後柳川32万石に移封され、
後には徳川譜代の本多康重が5万石で入ります。
 本多家の後は水野家、松平(松井)家と続き、1769年に本多忠粛(ただとし)が石見国(島根県西半分)浜田から入り、以後明治維新まで本多家が岡崎城主でした。
 この忠粛さん、官位は「従五位下 中務大輔」です。
 あれ?と思った方はかなりの歴史通。
そうです、本多忠勝(中務大輔だった)から続く本多家の宗家なのですよ。
その縁で、岡崎城内には本多忠勝の銅像が置かれています。

太鼓門跡
 二の丸からから太鼓門跡を通って持仏堂曲輪へ向かいます。
 持仏堂曲輪からは太鼓門へ向かう敵に横矢がかかるように設計されています。

持仏堂曲輪

持仏堂曲輪から二の丸を見る
 持仏堂曲輪を抜けると本丸御門への土橋にやってきます。
本丸御門への土橋

青海堀
 土橋の両側には深い空堀があります。
 本丸に向かって右側の空堀は青海堀と言いまして、築城以来からのものなんだそうです。(石垣は田中時代のもの)

本丸堀

岡崎城天守
 岡崎城の天守は明治6年に撤去されましたが、昭和34年に鉄筋コンクリートで外観復元されています。
 本丸の北東には埋門跡があります。
そこを抜けると急な下り坂になっていて、風呂谷曲輪へと向かいます。

本丸埋門跡

坂谷門跡
 風呂谷曲輪のもう一段下には坂谷曲輪があり、菅生川へと出る坂谷門跡がありました。
坂谷門外から天守を見る

旧八丁村と東海道
 坂谷門を出てしばらく歩くと、旧八丁村にやって来ます。
 岡崎から八丁(約800m)離れたこの場所が、
八丁味噌の故郷です。
 八丁味噌と言えば、味噌カツや味噌煮込みうどんなどで有名ですね〜

八丁味噌の蔵
「純情きらり」で有名になりました

伝:桶狭間古戦場跡
(昭和16年に建てられた石碑)
 さて、国道1号線に戻りまして矢作川を越えます。
 ひたすら国道1号線を走り、伊勢湾岸道をくぐります。
 名鉄名古屋本線の鉄橋をくぐり、中京競馬場駅の裏手?辺りに看板があり、
そこを左折すると桶狭間古戦場跡の石碑が建っていました。
 ふむふむ、ここが桶狭間か〜と感慨にふけっていると、停めてるバイクがじゃまだと言われて少々かちんときましたが、写真を撮ったらすぐ動かしますと答えました。
 すると、その方が桶狭間古戦場跡は、実はもう一カ所あるんだと教えてくれました。
私としてはびっくりしまして、その場所を詳しく教えていただき、さっそく移動を開始します。

桶狭間交差点
 国道1号線に一旦戻りまして、さらに西へと走ります。
 その名も「桶狭間交差点」を左折して南に走ります。
 ゆるい登りを登るとため池が左手に見えます。
ため池を越えると「ユーホーム桶狭間店」というホームセンターがあり、
その角の交差点(幕山)を左折した突き当たりが小さな公園になっています。

桶狭間古戦場公園
 この小さな公園が「桶狭間古戦場公園」でした。
 近年、様々な文献や土地の伝承などの再検討が行われ、今川義元は田楽狭間ではなく、「桶狭間山」に陣を張っていたところに織田信長に攻められて首を討たれたとの説が有力なのだそうです。
 その説によれば、先ほどの田楽狭間とコチラの両方が桶狭間古戦場ということらしいのです。
 桶狭間の名前の由来ですが、この桶狭間古戦場は近崎道三河道の合流点で、鳴海方面に通じる交通の要衝でした。
 ここには昭和61年の区画整理まで清水が豊富にわき出ていました。
わき出る水の勢いで、水汲み用の桶がくるくると回っているのを見た旅人が、
「桶廻間(おけはざま)」
と呼ぶようになったとの言い伝えがあります。
 江戸時代の文献のほとんどが「桶廻間」と記していまして、
現在の「桶狭間」表記になったのは明治10年以降のことなのだそうです。

公園にあった今川義元像と織田信長像
 桶狭間の合戦についても、従来は京に上洛しようとした今川義元が油断して田楽狭間に滞陣しているところを織田信長に奇襲されて討たれたという話でした。
 が、近年では、伊勢湾商業圈の覇権争い、特に熱田神宮(一大商業地であった)を押さえて織田家の経済力に打撃を与えるための出陣であった説。
 大高城、鳴海城が包囲されたための後詰め出陣という説などが有力視されています。

桶狭間の戦い関係地図
 この辺りは大高道から鳴海へ向かう近崎道が通っていまして、今川義元は前夜泊まった沓掛から大高道を進み、近崎道を進んで桶狭間山に陣を敷いたと推定されています。
観光案内板

解説板

桶狭間山からの夕焼け
 この日は到着する時間が遅くて、あまりゆっくり見て回ることが出来ませんでした。
 古戦場公園の東側はちょっと急な登り坂のある丘になってまして、ここが桶狭間山だったのでしょう・・・
 今は住宅地になっているその山に登ると、きれいな夕焼けが見えました。
この辺りで今川義元が討たれたのかと思うと、ちょっと感慨深かったです。
 古戦場ってことはなんか出そう(笑)なんですが、
この辺りに住んでる人はあんまり気にしないのかなあ〜なんて考えてました。
 また改めてゆっくりと来たいです。

清洲城模擬天守
 名古屋城近くのビジネスホテルに一泊した次の日、
愛知県は快晴でした。
 気分良く宿を出発。国道22号線を北上。
国道302号線から県道142号線を走り、清洲城にやって来ました。
(今見たら、県道67号線のほうが近いですね(笑))
 清洲城と言えば、織田信長の居城だったことで有名ですね。
昨夜訪問した桶狭間へも、清洲城から出陣しています。
 清洲城に居城を置いたのは、五条川のほとりという物流の便利さと、
対今川戦を意識し、庄内川を防衛ラインとする構想があったためのようです。

清洲城模擬天守
(本丸対岸に建てられた天守風の建物です)
 清洲城は1405年に尾張守護斯波義重によって築かれました。
平地に建てられた平城で、五条川から引かれた水堀によって守りを固めていました。
 当初は尾張守護所であった下津城の支城であったようですが、
守護代織田家の内紛により下津城が失われた結果、
1478年に清洲城が守護所となり、尾張の中心地となりました。
 戦国時代、尾張下四郡を支配した織田信友(守護代)の居城となります。
 信友は織田信長の叔父信光に討たれ、清洲は信長の居城となりました。
 信長はやがて小牧山城に居城を移しますが、清洲城は廃城とはならなかったようで、本能寺の変の後、信長の後継者を決めた清洲会議が開かれたりしています。
 その会議で尾張・伊勢は織田信雄に与えられ、信雄は清洲城を居城として整備します。
 徳川家康の関東移封に伴い、信雄にも徳川家旧領への国替えが命じられますが、信雄はこれを拒否して除封(領地没収)。
 清洲城は豊臣秀次の持城となったあと、福島正則の居城となりました。
 関ヶ原の合戦後、清洲には徳川家康の四男忠吉が入りますが、ほどなく病死。
 忠吉の後には家康の九男義直が入り、天下普請で名古屋城が完成すると清洲城は廃城となりました。

清洲公園にある織田信長銅像
 現在の清洲城は東海道新幹線と東海道本線によって城跡が分断されています。
 線路の南側には有名な信長の銅像があり、桶狭間の方角を睨んでいます。

現在の清洲城
五条川と新幹線、JR東海道本線の鉄橋

ういろ食べてみました。
 線路の南側には清洲ふるさとのやかたがあり、お土産なんかが売られていました。
 五条川の護岸工事で出土した石垣が移転復元されているのも線路の南側になります。

清洲城石垣

五条川
 お城は五条川をはさんで両側に築かれました。
 川の東側が城下町だったようです。
 かつては川を舟が上り下りし、活気のある城下だったのでしょう。
 今では想像できませんが。

JR東海道線北側から南を見る

美濃街道沿いの風景
 清洲城を後にして、旧街道らしい道を走ります。
 大都会名古屋市の近くなのに、旧家が結構残っていていい雰囲気の道でした。
一度美濃街道をたどってみたいですねえ。
 国道一号線まで南下しまして、進路を東にとります。

古い銭湯らしい建物
(なぜか看板には上州草津温泉の文字)
(しかも右書き)
 熱田神宮前を通過して鳴海までやって来ました。
 こちらも旧東海道の宿場町だけあって、古い風情のある建物が残っていました。

城跡公園
 やって来たのは
鳴海城
 桶狭間合戦時、ここは勇将岡部元信が守っていました。
 東海道を見下ろす丘の上にあるお城で、南には鷲津砦が見えました。

鳴海城跡公園の碑

鳴海城南方鷲津砦を見る
 鳴海城は『鳴海誌』にによると「東西75間半、南北34間」で、東西に細長いお城であったようです。
 城跡公園から道をはさんで天神社の辺りまでが城域だったようです。

天神社から城跡公園を見る

天神社
 この地は日本武尊の故地でして、成海神社がありましたが、鳴海城を築くにあたり、城の北にある乙子山に遷座しました。
 その後、城の鎮守として天神社が勧請され、廃城後も残ったと由緒書きにありました。

天神社由緒書き

天神社にある鳴海城趾の碑
 織田信秀に従っていた鳴海城主山口教継は、信秀没後に信長を見限って城ごと今川方へ寝返ります。
 信長はこれを攻めるも城を落とすことができませんでした。
 その後、山口教継父子は切腹させられ、後には岡部元信が鳴海城に入ります。
 対する信長は丹下砦、善照寺砦、中島砦を築いて鳴海城封鎖を計ります。
 桶狭間で今川義元討たれた時、岡部元信は主君の首級と引き換えに城を明け渡し、鳴海城は佐久間信盛が城主となりますが、天正年間に廃城となったと言われています。

鳴海城跡から鳴海駅方面を望む
城が丘の上にあるのがよく分かります。

鳴海城付近の地図
善照寺砦から続く尾根筋の先端に、鳴海城は築かれました。

桶狭間関係図
今川方の城と織田方の付城
街道を押さえる位置に織田方の砦が築かれているのがよく分かります。
尾州・参州ツーリング つづく
2012.6.17作成
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