金沢城大手門
(尾坂門)
 さて、金沢市内で一泊した私。
翌朝も早い時間から行動開始(笑)
なんと7:30には金沢城前にやって来ました。
 前回来たときに復元工事中だった河北門を見物します。

大手門には巨石を使います。
(権力を誇示するため)

左が河北門で、右が二の丸菱櫓
(手前芝生が新丸)
 以前にもご紹介しましたので、さらっと解説。
 金沢城は犀川と浅野川に挟まれた小立野台地の先端に築かれました。
 江戸時代には表高百万石を誇った前田家の居城であったので、その規模は相当のものがあります。
 何度かの火災にあったこと、明治時代は陸軍司令部、戦後は金沢大学の敷地になったことから、遺構はかなり改変を受けています。
 建物では
石川門、
鶴丸倉庫、
三十間長屋

などを残すのみです。
 近年になって金沢大学が移転したので、石川県が城跡の整備を開始。
 平成13年に菱櫓、橋爪門、橋爪門続櫓、五十間長屋が復元され、平成22年に河北門いもり堀の一部が復元されています。
 江戸時代に金沢城の中心となった二の丸御殿についても復元構想があるそうですよ!
 

新丸から二の丸菱櫓を見上げる

これが河北門
(三の丸大手門)
 江戸時代は作事所(城内の整備などを受け持った役所)などが置かれた新丸から、長い土橋を登って河北門へ向かいます。

新丸から河北門へのスロープ

スロープ途中から菱櫓を撮る
 河北門は一の門と二の門からなる、典型的な枡形虎口です。
 河北門の一の門は、石川門に次ぐ門幅があり、高麗門造り(二本の主柱の後に控柱を付属させて屋根を乗せた形式の門)になってます。

河北門一の門

河北門二の門
 一の門をくぐると枡形があり、左に折れると櫓門形式の二の門があります。
 門扉や柱は鉄で補強されています。
 城内側にまわってみると、
値段の想像がつかない

大きな梁が使われていました。
 まだ復元されたばかりなので、新しい柱が気持ちいいですね〜

門の城内側

城内側から見た河北門
 河北門をくぐると、そこは三の丸
 堀の向こうには二の丸菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓がそびえています。

二の丸菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓

二の丸堀
左から橋爪門・橋爪門続櫓・五十間櫓
 堀端まで来てみました。
 江戸時代末期、菱櫓は城内で一番高い建物だったので、天守代用だったようです。
 丸亀城の天守より少し大きいかな?

菱櫓
ひずんでいるのが分かるかな?

石川門と石川門続櫓
(国重要文化財)
 いったん三の丸から兼六園の方に出てみました。
 橋の上から石川門を撮ってみました。
 数少ない江戸時代からの遺構です。
 

石川門続櫓を見上げる

橋の下は県道10号線
 橋の下には県道10号線が走っていますが、かつては百間堀という堀がありました。
 再び石川門・河北門をくぐって新丸に戻ってきました。
 西町口門跡から城外へ進みます。
 

新丸に戻ってきました。
右端に見えるのが河北門

大手堀
 西町口門跡を出ると、右側に大手堀、左側に藤右衛門丸があります。
 門前には古い民家がありました。

うだつのある古い民家

御算用場跡に立つ解説板
 最初の角を左に曲がってしばらく歩くと
尾崎神社

があります。
 この辺りに加賀藩の財務省、
御算用場
がありました。
 財務省と書きましたが、御算用場は財政・会計のみならず、領内の民政も管轄していました。
 ここに「武士の家計簿」で有名になった猪山家の方々が勤務していたのです。
 跡地には会計事務所も建っていました。
なにか縁でもあるんでしょうか?(笑)
 

尾崎神社と会計事務所(4階建てのビル)

尾崎神社は城内(藤右衛門丸)にあった東照宮が、
明治に移転してきたものだそうです。

玉泉院丸鼠多聞続櫓台
 金沢市内をてくてく歩きます。
 城に沿って歩いていくと、大きく突きだした石垣がありました。
 玉泉院丸鼠多聞続櫓台石垣です。
江戸時代には堀底から10mの高さがあったようです。
 1810年に行われた修築時の指図(設計図)が残っているそうです。
 すごいですね〜
 丸みのある石が多用されたので、
「鶴目積の石垣」
とも呼ばれていたそうです。
 

拡大写真

解説板
 さらに歩くと凹んだ部分のある面白い石垣を発見!
 近くにあった解説板を読んでみると、ここに橋が架かっていたようです。
 橋のたもとには門があったのですが、明治時代に石垣が積み足されて塞がれてしまったようです。
 現在の道路は、かつての堀の底になるんですね・・・

くぼんだ部分に橋がかかっていました。

金沢城の図

旧高田家長屋門
 尾山神社を右に見ながら国道157号線へと歩きます。
 香林坊2丁目の交差点から西へと歩き、小さな川を渡って右へ、
さらに左へと歩きます。 
 この辺りは繁華街にも近いのに、静かな住宅街でした。
 また小さな川にぶつかったところの交差点角に、
武家屋敷の長屋門が残っていました。
 高田家は550石取りの武士で、440坪ほどの屋敷地を拝領していました。
550石といえば現在の感覚で1億5000万円弱なので、
かなりの高給取りですね。
(「武士の家計簿」磯田道史著の計算を援用)
 もっとも、これで家臣などを雇用しないといけないので、
すべて収入になる訳ではないのですが。
 長屋門の右側は厩で、左側は仲間(武家の下働き)の住まいになっていました。
 仲間部屋は囲炉裏が一つ切られただけの、四畳半くらいの小さな部屋でした。

仲間部屋

江戸時代のドアミラー
 仲間部屋には外を見るための窓
(武者窓)
がありました。
 来客があるとこの窓から誰が来たのかを確認し、母屋に来客を告げたり、門を開けたりしていました。
 さらに上級武士の屋敷になると出窓になったりします。

外から見るとこんな感じ

大野庄用水
 高田家跡から川沿いに北に歩くと足軽資料館があります。
 市内から移築整備された足軽屋敷があり、そのうちの二棟は内部を見ることができます。

生麩まんじゅう売ってました(笑)

建物内にあった説明
 足軽の住居と言えば足軽長屋を思い出しますが、加賀藩では
足軽といえども一戸建て
だったそうです(笑)
すごいですね〜
 足軽資料館になっている高西家屋敷は、足軽飛脚の組屋敷地であった市内旧早道町にあった屋敷で、平成6年まで実際に住居として使われていたそうです。
 藩政時代から残っている足軽屋敷としては最古らしいですよん。

足軽資料館

長町の景観
 足軽資料館から大野庄用水に沿って南に下ります。
 高田家跡を過ぎて麩まんじゅうを買いつつ(笑)長町までやって来ました。
 この辺りには加賀八家の一つ、
長九郎左衛門
(3万3千石)
の屋敷があったので、その名が付きました。
 「長」家は、能登守護畠山氏の重臣だった家柄で、前田家に仕える経緯とか、その歴史を調べるとかなり面白いので、興味のある方はぜひどうぞ〜
 

長町界隈

桑島氏屋敷長屋門
 このあたりは千石取りクラスの武家屋敷がありました。
 長屋門の武者窓も立派でしょ?(笑)
出窓になってますもんね〜

 そういえば某ローカル番組も取材?に来てましたね・・・
「絵はがきの旅」でしたっけ?(笑)
 

武者窓も出窓形式

石畳がすてきですが、こちらは最近の整備
 長町の中を大野庄用水が流れているのですが、そのところどころに左下写真のような取水口が開いてます。
 何をしているのかといいますと、屋敷内の庭園に水を引き入れて泉水として利用しているそうです。
 風流ですな〜
(*^ω^*)

金沢の街巡りはまだまだ続きますよ〜

観光地なので整備も行き届いてます

取水口
北陸の酒と城 つづく
2012.2.4作成
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