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![]() 毎度お馴染み宮崎港 |
3月半ばのある日のこと。 私は毎度お馴染みの宮崎カーフェリー船上におりました(笑) 2012年ツーリングシーズンの幕開けです。 快晴の宮崎港に到着。 国道269号線を走り、都城を目指します。 |
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![]() 寒天工場跡 |
都城盆地に入り、山之口というところで国道を外れました。 この辺りにある山之口城を探すためですが、狙うお城は見つからず。 しばらく県道を走っていると、 「島津寒天工場跡」 とかかれた看板を見つけたので寄ってみました。 |
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![]() 解説板 |
幕末の薩摩藩は財政難に悩まされていました。 この状況を打破すべく、調所広郷は指宿の豪商であった浜崎太平次と図り、この地に寒天工場を建てました。 天草は甑島など薩摩西海岸から運ばれ、出来上がった寒天は福山(現:国分市福山町福山)に馬で運ばれ、そこから遠く中国などに輸出されたそうです。 |
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![]() 9基の釜の跡 |
当時の薩摩藩は砂糖の専売制をひいて財政立て直しを図っていましたが、寒天を輸出していたとは知りませんでしたねえ。 儲かったんでしょうかね?(笑) |
![]() 焚口は石造り |
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![]() 釜跡を上から見る |
明治14年、ロベルト・コッホが寒天培地による細菌培養法を開発したため、寒天は日本の重要な輸出品でした。 太平洋戦争中、日本は戦略物資に指定して禁輸措置を取ったため、外国で粉末寒天が開発されたそうですよ。 江戸時代に輸出された寒天は、いったい何に使われていたんでしょうかねえ・・・ |
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![]() 新燃岳見ゆ |
県道を走っていくと、春らしく霞んだ空の向こうに新燃岳が見えました。 この日は噴火せず、穏やかに見えました。 |
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![]() 粋な石塀 |
県道はやがて有水で国道10号線と合流。国道を南下して高城に移動しました。 ここには江戸時代初期まで月山日和城がありました。 江戸時代には麓(薩摩藩の役所)が置かれ、付近の行政の中心地となりました。 |
![]() ここに地頭屋敷があったそうです。 |
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![]() 鶴丸と下り藤、桐が彫り込まれていました。 |
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![]() 八坂神社 |
高城には古そうな神社もありました。 地元で有名なお祭りもある神社だそうですよ。 鬼瓦が修理中?でした。 |
![]() 鬼瓦修理中 |
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![]() 急な上り坂 |
いよいよ 月山日和城 (がっさんひわ) に到着しました。 月山日和城は西を大淀川、南と東を東岳川に囲まれた台地の先端に築かれました。 築城者は肝付兼重。南北朝時代のことです。 兼重は南朝方で、この城には「錦の御旗」が翻りました。 「月山」の名は、錦の御旗に描かれた月と日によると言われています。 城は北朝方の畠山直顕に攻められ、暦応3年(1340年)に落城。兼重は高山城に落ち延びました。 |
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![]() 城跡には模擬天守があり、 内部は郷土資料館になってます。 |
畠山氏の後、和田氏、島津氏と城主が変わり、飫肥領との交換で伊東氏が城主となります。 その後、都城の北郷忠相が伊東氏を追い払い、ここを居城としました。 伊集院氏の時代を経て再び北郷氏の城となりますが、元和一国一城令によって廃城となりました。 |
![]() 解説板 |
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![]() 犬山城そっくり(笑)の郷土資料館と、 昭和天皇がこの地に来たことを記念する 「聖上御統監の地」碑 |
月山日和城はいわゆる南九州型(群郭郭式と言われる)のお城です。 本丸にあたる本城を始めとする8つの曲輪があり、広さは約4ヘクタールあります。 資料館が建っているのは、城の最南端にある「池の城」と呼ばれる曲輪です。 |
![]() 月山日和城縄張り図 |
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![]() 資料館最上階から都城方面を見る |
昭和10年に都城にて陸軍特別演習があり、昭和天皇はここから演習を視察しました。 それを記念する石碑が建てられていました。 昭和天皇も写真のような風景を見たのかもしれません。 |
![]() 新燃岳も見えます。 |
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![]() 資料館最上階から北側「内の城曲輪」を見る |
資料館のある「池の城」から空堀(道になっている)を隔てて北側には「内の城」があります。 内の城にはかすかに土塁の跡が残っていて、祠がありました。 |
![]() 空堀跡 |
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![]() 内の城北西隅には祠 |
春の日差しを浴びながら、しばしのんびりしていました。 | ![]() 内の城曲輪から土塁・矢筈竹越しに 中の城曲輪を見る |
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![]() 月山日和城(高城)縄張り図 |
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![]() 志和池城跡 (志和池市民広場から見る) |
月山日和城から県道46号線、420号線を走り、国道221号を南に走ると右手に小さな小山が見えます。 これが志和池城跡です。 志和池城は応永年間(1400年前後)に北原氏によって築かれたと言われています。 文明17年(1485年)には島津忠尭(志和池氏の祖)が在城しています。 北郷忠相が攻め落とし、以後は北郷氏の城となりました。 豊臣秀吉による九州統一後、庄内と呼ばれた都城盆地一帯は伊集院忠棟の所領となり、志和池城も伊集院氏の持城になりました。 |
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![]() 志和池城本丸跡 |
伊集院忠棟の暗殺に続く庄内の乱において、志和池城は島津本家の軍勢に包囲されて兵糧攻めに遭い、開城しています。 |
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![]() 本丸から月山日和城方面を望む |
志和池城は南と東を大淀川が流れる台地の先端に築かれています。 月山日和城や遠く都城も望むことができ、庄内の乱では狼煙などで連絡を取り合ったりしたのでは?と妄想をふくらませてみました(^^; |
![]() 都城盆地を一望できます。 |
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![]() 月山日和城と志和池城の位置関係 |
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![]() 志和池城解説板 |
志和池城周辺には兵糧攻めに遭った時の島津本家軍の陣跡も残っています。 | ![]() 縄張り図 |
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![]() 荒神 |
本丸を下ったところには荒神と呼ばれる塚がありました。 城の守護神として祀られていたそうです。 城の北側は台地が続いており、空堀で区画された二の丸以下の曲輪群が本丸を守っていました。 |
![]() 二の丸から荒神、本丸を見る |
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![]() 案内板 |
城の西北には外堀として掘られた空堀が残っていました。 この堀をはさんで、志和池城を包囲した北郷軍の陣地が築かれていました。 |
![]() 空堀跡 |
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![]() 蓮池(志和池) |
左の蓮池が志和池という地名の発祥となった池です。 俗説によれば雲林寺の住僧が、鏡のような池を眺めて 「志の和らぐこと、この池のごとくあれ」 と言ったことから、志和池の地名が起こったそうです。 志和池城を築いた島津播磨守忠尭から始まる一族は志和池氏となり、島津本家の家臣となりました。 |
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![]() 槍合わせ場 |
こちらの場所は 「鑓合場」 と呼ばれています。 庄内の乱の時、伊集院方の園木治右衛門が、北郷方の敷根仲兵衛と槍を合わせて討ち死にした場所です。 |
![]() 槍合わせ場から志和池城本丸を見る |
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![]() 志和池城縄張り図 |
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![]() 鬼岩階段 鬼が一晩で積み上げたと言われる石段 振り向かずに願い事を唱えながら登りきると 願いが叶うそうです。 |
県道46号線から42号線を走りまして、 東霧島神社 (つまきりしま) にやってきました。 霊峰高千穂峯を取り巻く霧島六社権現の一つです。 祭神は伊邪那岐尊(イザナギノミコト)です。 運動不足をあざ笑うような急な石段を登っていきます (^^; |
![]() ゴールが見えてきました〜 |
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![]() 東霧島神社拝殿 |
ほどよく息も切れた頃、ようやく拝殿に到着しました。 象の彫り物が印象的でした。いつ頃の作品なんでしょうかね? 後で調べたら薩摩藩主島津家久奉納の神輿もあったそうで、写真撮ってきたらよかったなあ・・・ |
![]() 象の彫り物がありました。 |
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![]() のうこうパン |
国道221号線に戻って都城市街へ。 軽くラーメン食べてから、国道269号線を南下。曽於市岩川のローソンでコーヒータイム。 |
![]() 美味しそうですな |
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![]() 鹿屋農業高校とのコラボだそうです。 |
かわいいイラストのホットドック見つけたので買ってみました。 鹿屋農業高校で飼育された黒豚を使用したソーセージ入りなんだそうですよ。 美味しかったですよ(*^^*) 鹿児島県では、地元高校とのコラボ商品をよく見かけます。 面白くていい企画ですね。 |
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![]() 久しぶりの桜島 |
県道71号線、国道504号線、県道71号線、国道220号線を走っていつもの喫茶店へ(笑) まったりと過ごしました。 |
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![]() 鹿児島ラーメン豚とろ |
日が暮れてから鹿児島市内に渡り、宿にチェックイン。 市電に乗って天文館にお出かけ。 鹿児島ラーメン豚とろでラーメンいただきました。 |
![]() おいしゅうございました |
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春の南九州2012 つづく | |||
2012.12.30作成 | |||
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