紀伊水道を渡ります
 GWも無事に終わりまして、いよいよれんと始動です(^O^)
 有給休暇でレッツゴーです。
 和歌山港からフェリーに乗船。
一路徳島を目指します。
 「最近、高知に行ってませんね?」
とかお友達海雛さんにも言われてまして、久しぶりに四国に向かいます。
 徳島に上陸後は国道11号線を北上します。
鳴門IC手前で左折。県道12号線を西に向かいます。

こちらが「高野きらら」
萌えキャラご紹介

 最近、なんでも
「萌えキャラつけたら売れるんじゃね?」
的な発想が目立ちますが、フェリー業界も同じでして
南海フェリーにも萌えキャラ

が描かれるようになりました(^^;
 他にも宇高国道フェリー(現在休止中)にも導入されてましたね。

こちらが「阿波野まい」

こちらは鳴門鯛精米
 堀江郵便局を左折すると、目の前に
本家松浦酒造場がありました。
「鳴門鯛」
という日本酒を醸してます。
 

鯛のこて絵が踊ります

ヤブタ式の酒しぼり器?
 文化元年(1804年)、二代目松浦直蔵により創業。
 五代目松浦九平の時、県令酒井明により「鳴門鯛」と命名されたそうです。
 鳴門は潮が早く、そこで採れる鯛は身が引き締まり、脂がのって美味であることから「鳴門鯛」と命名されたそうです。

鳴門鯛
山廃造り純米吟醸原酒
 山廃系の造りが多いみたいですね。
 私は左の酒買ってきて飲みました。
甘口すっきり系かな???

ラベル

旧吉野川
 スマホで地図見てたら、
近くにお城を発見!
(^^;
 移動開始です。
 旧吉野川沿いを走ります。

高徳線

内堀跡
 県道14号線沿いに走っていると、右側に看板がありました。
 見性寺、いわゆる勝瑞(しょうずい)です。
 勝瑞城は吉野川のデルタ地帯に築かれ、吉野川の流れが外堀と舟入を兼ねており、要害と通商の要衝を兼ね備えていました。
 築城は承久の乱後、阿波国守護であった小笠原長清が守護所を置いたことに始まると言われています。
 (余談ですが、小笠原家は甲斐源氏の一族で、甲斐の巨摩郡小笠原郷を所領としていたため、小笠原を名乗りました。後の信濃守護小笠原氏の祖先になります。)
 室町時代始め、勝瑞城は阿波国守護 細川頼之が居城とし、戦での勝利を祝って地名を勝瑞に改めたと言われています。
 細川頼之は三管領の一人として活躍し、7代成之は応仁の乱で8千の兵を率いて上洛しています。細川家は繁栄を極めました。
 海に近く、水運に恵まれた勝瑞城下は畿内との繋がりが深く、商業・文化都市として繁栄しました。
 応仁の乱後の当主 細川政元には実子がなく、三人の養子を取りましたが、これが家中の乱れを招き政元は暗殺されてしまいます。
 打ち続く細川家中の混乱の中で実験を握ったのが細川家臣三好家です。
 三好長慶は細川家を牛耳り、将軍位さえも左右しました。
 長慶の弟義賢は、細川家一族で重臣であった細川持隆を討ち、勝瑞城主となります。
この頃の三好家の勢力は山城・丹波・和泉・阿波・淡路・讃岐・播磨に及び、一族は将軍・管領を傀儡として絶頂を極めます。
 しかし長慶の弟、三好義賢・十河(そごう)一在が亡くなると三好氏は急速に勢力を弱めます。
 畿内には織田信長が勢力を張り、長慶の家臣であった松永久秀も信貴山で討死。
勝瑞城主であった三好長治(義賢の子)も細川家中の勢力争いで敗死。
阿波国内の混乱は土佐の長宗我部元親の侵入を許す契機になりました。
 最後の城主、三好在保は勝瑞城に立て籠って戦いますが(中富川の戦い)、敗れて讃岐に逃れ、勝瑞城は廃城となりました。

解説板
 現在、見性寺(三好家菩提寺)周りには水堀と土塁が残っています。
ここは勝瑞城の本丸跡だと言われていましたが、中富川の戦いの際に急遽築かれたもののようです。
 この従来本丸とされていた場所の南150mの地点に、12m幅の堀を持つ東西120m、南北150mの方形区画が発掘調査などで発見されました。
 現在はこちらが居館の跡だということになっています。

堀跡
幅は広いところで16mあります。

矢竹
 見性寺には土塁が残っており、土塁には矢竹が植えられていました。
 矢竹は矢の材料になるため、城によく植えられていました。

矢の材料にするため、城によく植えられました。

勝瑞城と城下の範囲

やまだうどん
関東にある某チェーン店とは関係ありません
 勝瑞城で時間が過ぎてしまいました(^^;
 県道14号線・12号線を西に走ります。
国道193号線にぶつかったところで右折して北上。
香川県に入ってから国道377号線へと左折。
 綾川町山田下にあるやまだうどんで遅いお昼ご飯にしました。
肉うどん大盛り頼んだら、エライ量で少し後悔しましたよ〜
とっても肉肉しいおうどんでした。

肉うどん大盛り!

綾菊酒造
やまだうどんからほど近く、綾川を渡ったところに
綾菊酒造
はありました。

看板

綾菊酒造付近
 綾菊酒造の創業は寛政2年(1790年)の蔵です。
 地元産の酒造米「オオセト」を使ったお酒を醸してまして、数々の賞も受賞しています。
杜氏さんは広島(安芸津)杜氏の国重弘明さんです。
 国道377号線はやがて国道32号線に合流。再び分かれて観音寺市で国道11号線へと合流します。
金比羅さんにもほど近いので、
「♪こんぴらふねふね〜」
を歌いながらの走行になりました。
 県境を越えて愛媛県に入ったところで、
「川之江城」
の看板を見たので、国道を外れました。
 国道11号線の右手に見える小山が川之江城でした。

模擬城門
 駐車場にあった看板によると、築城は南北朝の頃で1337年です。
 南朝方河野氏の家臣、土肥義昌が砦を構築したのが始まりだそうです。
 阿波・讃岐・土佐・伊予を睨む交通の要衝であったため、度々戦乱に巻き込まれます。
1342年には北朝方の細川頼春が伊予に攻め込み、川之江城は落城しています。
のちに城は河野氏に返されました。
 戦国時代の城主は妻鳥友春でした。1572年は阿波の三好長治が攻め込んでいますが、これを撃退。しかしその後の長宗我部氏の攻勢に耐え切れず降伏しますが、これに怒った河野氏に攻められて落城。友春は落ち延びます。
 城には河上但馬守安勝が入りますが、長宗我部家が再び攻め寄せ、安勝は戦死、城は落城しています。
 この時、安勝の娘である年姫が崖から飛び降りて自害したとの伝説が残っています。
(姫ヶ嶽の地名が残る)
 その後、小早川、福島、池田、小川と領主が変わりますが、加藤嘉明の時代に川之江城は廃城になりました。
 1636年に一柳直家が川之江藩を立藩したときに城を再築しようとしましたが、1642年に死去。以後、川之江の地は天領になったため、城は再建されませんでした。
 城跡は犬山城もどきの模擬天守と城門が建てられていて、当時を偲ぶよすがは残っていません。模擬天守内は資料館になっているみたいでしたが、17:00前で入館できませんでした(笑)
 今は木が生い茂っていますが、かつては瀬戸内海を見渡せる場所だったのでしょう。
地の利を感じました。
 昔は半島だったのでしょうが、今は周りが陸地化しています。

城から瀬戸内海を見る
 その後も国道11号線を西に向い、新居浜市の近藤酒造でお酒を購入。
近藤酒造さんは創業明治11年。
「姫桜」というお酒を醸してます。
 どれを買おうか思案していたころ、香川のお友達の亜希さんと連絡が取れました。
 せっかくだから会おうか、という話になったのですが、亜希さんは下道で西に走り、私は高速で東に走ったので行き違いになりました。
(^^;
三島川之江IC外で無事合流。
近くのコンビニでぐだぐだと近況報告に花が咲きました。
2時間くらい話したかな?
前回お会いしたのは札幌だったので、愛媛で再会なんて感慨深い深いものがありましたね。まあご近所?さんになったことですし、またの再会を約束して別れました。
 その後は松山道を西にひた走り、松山市内のビジネスホテルでようやく落ち着きました。もう21:00くらいだったかな?冷えた体にお風呂が気持ちよかったです。

近藤酒造にて(笑)

川之江城跡付近の地図
讃岐街道を見下ろす小山の上に築かれたことがよくわかります。
四国一周の旅 つづく
2013.1.3作成
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