なかなか晴れない梅雨空をついて、ツーリングへと出発したれんと。
 名阪国道、東名阪、伊勢湾岸道をついで東名高速道路をひた走ります。
磐田ICで高速道路を降りまして、県道43号線を南下。磐田市内を物珍しそうに見ながら通り抜けます。
福田郵便局から県道をはずれ、旧街道っぽい道を東へと走ることにしました。
道は国道150号線と平行に東へ延びていまして、やがて県道41号線と合流。
すいすいと走ります。
 県道41号線を走っていたら写真の白い立杭(横須賀城外堀跡って書いてあった)を発見!
慌てて急停車しました(笑)
 そしたら50m先でK察がネズミ捕りやってました。(爆笑)
 城好きでなかったら静岡県警の餌食になるところでした・・・
「芸は身を助ける」って本当ですな(ちょっと違う?)

二の丸南面の外堀跡
(草むら部分)
 横須賀城は天正6年(1578年)、武田方に渡った高天神城を包囲すべく徳川家康が陣城として築き、大須賀康高を城主としました。
 城は海に向かって南西に伸びた尾根に築かれました。
 現在は海から2キロ離れており当時を偲ぶのは難しいですが、これは江戸時代の宝永4年(1707年)の大地震の地盤隆起によるもの。
 かつては城の真ん前まで入江があり、城内に船着場も持っていて、遠州灘の水運を押さえる要衝だったのです。
 城は東西に長い縄張りで、大手門は西と東に二つ設けられていました。
 

二の丸を見る
(堀が切れ込んでいるのが見えるかな?)
 外堀跡の立杭があったところが、ちょうど西大手門跡のようです。
 バイクを停めて歩いてみます。
 広い外堀跡は埋め立てられて草むらになっていました。
 その奥がこんもりと盛り上がっています。
 これがどうやら二の丸跡のようです。
 堀の切れ込みも綺麗に残っていました。

西大手門付近

堀の切れ込み

西大手門跡
 細い道の部分がかつての西大手門跡のようで、立杭がありました。
 その右手にはひときわ高く盛り上がった部分があり、ここには西櫓が建っていました。
 絵図には白壁の二層櫓が描かれています。
 櫓は堀端から土塀をはさんで少し離れたところに建てられていたようです。

西大手門脇に建っていた西櫓跡

西櫓台から外堀を見る
(道路部分が中土居道跡で、
その向こうはかつて入江でした)
愛車がこっそり写ってます(笑)
 横須賀城の南には大きな外掘があり、現在県道41号線になっているところが中土居と呼ばれた通路、その南側が入江でした。
 2キロ幅に渡って隆起するなんて地震ってすごいですね!
 海から切り離された横須賀の城下町は、経済に大打撃を受けたそうです。
 城の西を流れる太田川まで運河を掘り、小舟を通すことでしのいだそうです。
 

同じく南外堀跡
(東の方向を見る)

横須賀城絵図
東西に長い横須賀城の縄張りがよくわかります。
 バイクに乗ってちょっとだけ移動。
 西の丸の下までやって来ました。
ここにはトイレと小さな駐車場があります。
 ここにバイクを停めて歩き出します。

階段が整備されています。

西の丸の下にある米蔵跡です。
 絵図によると、二の丸から二つ門をくぐると城の中枢部にやって来ます。
 絵図ではこの曲輪の北縁に多聞櫓が三つ描かれてます。これが米蔵でした。

横須賀城を西側から見る

米蔵跡から整備された階段を登ります。
 米蔵跡から階段を登った先には石段があり、発掘調査で門跡が発見されています。
 絵図面では櫓門が描かれている場所です。
 ここでは立葵(本多家の家紋)の瓦が出土しています。

発掘結果の解説板

西の丸を見上げる
 高天神城が再び徳川家となったあとも横須賀城は維持され、大須賀康高が城主となります。
 徳川家の関東移封の後、渡瀬繁詮(わたらせしげあき)が城主となります。
 この繁詮さん、上野(群馬県)出身で始め北条氏に仕えていましたが、のち羽柴秀吉に使えて紀州征伐などで活躍しました。
 のち、関白豊臣秀次付きの家老になりますが、秀次失脚に巻き込まれて切腹。
嫡男がいましたが相続が許されず、なぜか義弟の有馬豊氏が領地・家臣団を継承します。
 有馬豊氏(播磨赤松氏の庶流)は関ヶ原合戦後、福知山に移封(のち筑後久留米へ)になり、横須賀城には大須賀忠政(康高の養子)が6万石で入ります。
 以後、能見松平家、井上家、本多家と譜代大名が次々と城主となり、
最後は西尾家が城主となって八代続いて明治維新を迎えています。

西の丸への階段

西の丸
 逆U字型の山頂部分が横須賀城の主要部分で、西側が西の丸、東側が本丸です。
 絵図によると、西の丸には御殿風の建物が二棟描かれています。

西の丸から南東方面を見る

本丸と西の丸の間は谷になっています。
 この西の丸と本丸の間は谷になっており、その谷を塞ぐように櫓門が二基建てられ、その間が枡形空間になっています。
 本丸南下櫓門は特に大きく描かれており、本丸への大手筋であったことがわかります。

横須賀城本丸付近

西の丸から本丸を見る
 西の丸と本丸は同じ高さで、間はとくに特に仕切りもなかったようです。
 絵図によると、本丸には白壁を持つ四重の天守と、御殿風の建物が三棟描かれています。

本丸北側の土塁跡
この上には土塀があった

天守台跡
 記録によれば、天守は建坪40坪余、四重の建物だったようです。
 発掘調査では、約2m間隔に並んだ礎石跡が27箇所発見されました。
 天守台は奥が高くなっており、ひょっとしたら岡山城の月見櫓のように南側が4重、北側が3重だったのかもしれませんね。

天守台の遺構

天守台の南東にはスロープがあったようです。
 横須賀城の天守は本丸端いっぱいには建てられておらず、土塁と土塀の内側に建てられていました。
礎石跡が展示されていました。

天守台から南を見る。
 天守台からは遠くを見渡せました。
 ここに建っていた天守からは、遠州灘を行き交う船を眼下に見下ろし、監視できたことでしょう・・・

天守台から北側、北の丸と松尾山を見る

本丸跡にあった横須賀城模型
 本丸跡にはコンクリート製の横須賀城模型がありました。
 が、建物部分が何者かによって破壊されていました。
なんで公共のものが大事にできないんだろうか・・・

本丸南面石垣
 本丸南面と、その正面に建てられた櫓門部分には石垣が築かれていました。
見よ!この大迫力

いく重にも築かれた石垣が大迫力です
(城内で一番大きな櫓門があった場所)
 丸っこい石で築かれていたので、最近のものかと思ったのですが、解説板を見ていると江戸時代から玉石を使った石垣だったそうです。
 天竜川から運んできたそうですよ〜
 発掘調査で出土した石垣の上に、大井川から運ばれた玉石で石垣が復元されており、その眺めは横須賀城独特のもので圧巻です。

水抜き穴跡
(安全のため、今は塞がれています)

かなりの高さです。
 丸っこい玉石で石垣を築くのはかなり高度な技術が必要だったことでしょう。
 その石垣を後にして本丸下を北側へと歩いていきます。

北の丸へと続く通路

北の丸からみる本丸天守台付近
 本丸北側には北の丸がありました。
 本丸と松尾山に挟まれたこの空間には三棟の建物が描かれています。
 北の丸には排水路の跡が見つかっており、復元されていました。

排水路跡

松尾山入口
 北の丸北東には松尾山があります。築城当初はこちらが本丸だったのではないか?と言われています。
松尾山からみる本丸

発掘調査中
 絵図によれば松尾山には一棟の多聞櫓が描かれています。
 発掘調査でも建物があったことが裏付けられています。

松尾山にも多聞櫓があったそうです。

松尾山東川には竹林が
 松尾山から本丸下を通っていると三日月堀が見えました。
三日月堀跡

三日月堀跡
 近くにある掛川城にも似たような堀があるのが面白いですね。
 堀の遺構で残っているのはこの三日月堀のみです。
 三日月堀から東にしばらく歩くと、東大手門跡に来ました。
 このあたりは宅地化が進んでいて、往時を偲ぶのは難しいです。
 このあたりが三の丸で、藩庁があり、東南隅には登城を告げる二重の太鼓櫓がありました。

東大手門跡

横須賀城東側部分

二の丸御殿跡
 バイクを取りに西の丸下まで戻ります。
 このあたりは二の丸で、藩主の屋敷がありました。
 池跡なども出土しています。
 西大手門の西側には厩がありました。
 城の北西隅には不明門があったのですが、このあたりは畑になっていて当時をイメージするのは難しいです。

二の丸北西隅

堀跡
 堀跡らしい用水路?と門跡らしいかすかな段差が残るのみでした。
不明門跡

横須賀城の現状

黒田家長屋門
 名残惜しくはありましたが、横須賀城を後にしまして走り出します。
 県道69号線を東に走っていくと菊川市で
「黒田家住宅」
を見つけて寄ってみました。

解説板

堀で囲まれてました。
 黒田家はもともと武家で、永禄年間にここに移り住み、江戸時代は四千石の旗本本多日向守の代官をしていたそうです。
 写真だけ撮って旅路を急ぎます。
 県道69号線をひたすら走っていくと駿河湾が見えました。
 相良までやってきたようです。

相良の山の上から駿河湾を見る。

晩御飯
 相良は相良氏(肥後人吉藩主)の館や、田沼意次が居城とした相良城があるんですが、日も落ちたので先を急ぎます(^^;
 国道150号線を走って吉田町へ。
もう少し先まで行きたかったんですが、ちょっと疲れました(笑)
隣の島田市でギョーザ定食食べて、吉田町のホテルに投宿。
長い一日が終わりました。

横須賀城周辺図
かつての地形と重ねてみると、横須賀城の重要性がわかります

高速降りてからの走行ルート
遠州・駿州城巡り つづく
2013.3.4作成
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