2013年10月のある日。
 思い立って旅に出ました。
 例によってなんにも決めずに出発です。
 なんとなく走って御在所SAまでやって来ました。(笑)

熱田の渡し
 ここまで来たらお昼ご飯は名古屋市内で。
 熱田の蓬莱軒でひつまぶしをいただきました。おいしゅうございました。

名古屋名物ひつまぶし

なんかの門
 ここまで来たらお参りってことで熱田神宮へ。
すごい人です

信長塀
信長が寄進したといわれてます。
 熱田神宮といえば古い神社でして、創建は西暦113年とされており、1900年の歴史があるそうです。
 ご神体はかの有名な「草薙の剣」でして、日本武尊と関わりの深い神社です。
 神職を勤める千秋家は、尾張国造の尾張家の血を引く古い家柄です。
 昔は伊勢湾に突き出した岬の上にあったのですが、いまではその面影はありません。

熱田名物
 江戸時代には東海道の宿場町である宮宿が置かれ、七里の渡しの湊町として栄えました。
毎回食べてるような気がする

石垣
 お参り済んだらここに来るしかありません。
 そう、名古屋城です。
 御三家筆頭である尾張徳川家(61万9千石)の居城です。

名古屋城天守
未申櫓は改修中

本丸大手一の門
(現存)
 大阪城の豊臣家との戦が近づく1610年、天下普請で名古屋城は築かれました。
 当時尾張の中心地は清洲でしたが、低地だった清洲を捨てて、台地上に名古屋城が築かれました。
 住民だけでなく、清洲城下にあった寺社も移され、「清洲越し」と呼ばれました。

本丸巽隅櫓
本丸を囲む空堀です。

本丸御殿が復元されていました。
 初代藩主であった義直公は本丸御殿に住みましたが、将軍上洛の際に宿舎となったことから、後の藩主は二の丸に住みました。
 本丸御殿は戦前まで残っていましたが空襲で焼失しました。

見事な書院です。

美しい
 が、空襲に備えて障壁画などが疎開していたのと、戦前に綿密に調査されていたことから、それらを元に本丸御殿が復元されました。
 

襖絵すてきやん

まだ工事が続いてました
 工事はまだ途中でしたが、内部が先行公開されていたので見学してきました。
 かつては将軍のみが利用した本丸御殿内部は絢爛豪華でした。
 将軍家と尾張藩の栄華が偲ばれました。

天守を見上げる
圧巻ですね〜

名古屋城模型
 同じく空襲で焼失した天守は先に鉄筋コンクリートで外観復元されていましたが、この度木造で復元する話が持ち上がっています。
 予算の話はさておき、お城ファンとしてはぜひ実現してほしいものです。
 ちなみに名古屋城天守は高さこそ江戸城天守に譲るものの、床面積では日本一であったので、もし木造で復元されれば、世界有数の巨大木造建築になると思われます。
 姫路城天守より巨大な天守は観光の目玉になるでしょう・・・・

天守北面

味噌煮込みうどん
 すっかり日も暮れまして、晩ご飯。
 国道41号線沿いにあったお店でチープに済ませました。
 この日は宿がなく、遠く岐阜県の関市まで移動しての宿泊となりました。

きしめん

関市のルートイン
 さて翌日も好天に恵まれました。
 朝ご飯もそこそこに、出発します。
 美濃ICから東海北陸自動車道に乗り、北を目指します。
 飛騨清見あたりは気温も低くて別世界でしたね〜

合掌造りの古民家
 五箇山ICを降りて国道156号線を走り五個荘集落へ。
 相方さんが合掌造りを見たいといったのですが、白川郷は混雑していると思ったので、こちらに回ってきました。
 

この日も好天

展望台から見る
 五個荘から国道304号線を走って山を下りてきました。
 砺波平野です。

砺波平野

妙敬寺
 とある場所を探して行ったり来たり。
 途中にすごく立派なお寺を見かけました。
 北陸はお寺がすごく立派ですね。

妙敬寺山門

成政酒造
 やって来たのは成政酒造。
 「成政」というお酒を醸しています。
 事務所で直販やってるとのことで、いくつか購入してみました。
 奥さまらしい方が対応してくださったのですが、感じのいい方でした。
 お昼時だったので、おいしいお店をお聞きしたところ、教えていただきました。
 ありがとうございました。

成政

手打ちそば茅笑さん
 向かった先は福光市街にある「手打ちそば茅笑」さん。
 成政のお酒も飲めるおそば屋さんです。
 おそばのセットをいただいたのですが、すごくおいしかったです。
 相方さんもいまだにこのお店の話をしています。
 ごちそうさまでした。 

大変おいしゅうございました。

砺波平野の風物詩
散村
 動き始めると深追いするのが悪い癖。
 どんどん北上していきます。

広い平野にぽつんぽつんとお家が

瑞泉寺唐門
 県道27号線を走って瑞泉寺にやって来ました。
 このお寺は真宗大谷派(東本願寺)のお寺で、越中一向一揆の拠点となった場所です。
 開基は明徳元年(1390年)です。
 このお寺のすごいところは、彫刻で有名な井波の職人さんたちが手がけた彫り物です。

彫り物がすごい

獅子の谷落としの彫り物
 今の建物は明治・大正期のものなんですが、地元の職人さんたちが腕によりをかけて立派な彫刻を施しています。
小獅子が落ちていきます。

山門
 お寺には興味はあまりないのですが、彫刻を見ているだけで楽しいです。
扉に彫られた紋

灯籠も立派
 結構長い時間見ていました。
 さて、この瑞泉寺ですが、佐々成政に攻められて町屋などとともに焼失。
 その後に佐々成政の家臣、前野小兵衛が入ってお城を整備します。
 これが井波城です。
 天正13年、前田利家に攻められて井波城は落城し、廃城になりました。
 お城の規模は250m四方。小さいけれどもよくまとまったお城でした。
 写真、たくさん撮ったんですけど見つからず・・・orz

太子堂

さすが一向一揆の拠点
石垣に囲まれています。
 初めて訪れたときより気持ち寂しくなった気もしますが、門前の井波の町には彫刻のお店が並んでいました。

井波の町並み

富山城
 この天守風の建物は、本丸大手門脇の多聞櫓があった場所に建てられました。
中は博物館と展望台です。
閉館ぎりぎりでしたが、なんとか間に合いました。
  不安がる相方さんを尻目に国道359号、国道41号と北上を続けます。
 ついに富山市内に入って富山城に到達しました。
 富山城は越中守護代神保長職が天文12年(1543年)に築かせたといわれていますが、実際はもう少しさかのぼるようです。 
 神保家は上杉家に富山を追われ、激しい攻防の末に城主になったのが、佐々成政。
 先ほどのお酒の由来となった織田信長の武将です。
 佐々成政は本能寺の変後、羽柴秀吉と争いますが、富山城を大軍に囲まれて降伏。
 越中国は前田利家に与えられます。
 隠居した前田利長が入りますが、火災で建物を焼失し、利長は高岡城を築いて移ります。
 その後前田利常の次男利次が10万石を与えられて分家し、富山藩が成立。以後富山藩の居城として明治維新まで続きます。
 お城は神通川を背にした後ろ堅固の場所に築かれました。
 城内には二重櫓が本丸に3基のみ、ほかは多聞櫓か土塀で、二の丸と本丸に櫓門がありました。 

せっかく富山まで来たんだからと、
西町大喜中島店で
富山ブラック食べました。
すごい塩辛いです。
麺ももっちり歯ごたえあり。
でもおいしかったです。

気温が10度まで下がりました。
 この日の宿はなんと飛騨高山。
 ラーメン食ってる間に日は沈み、真っ暗な山道を走ります(笑)
 富山から国道41号線をひた走り、高山でチェックインしたのは21時頃だったかな?
 お夜食に、井波で買ったます寿司をいただきました。
2013中部地方縦断 続く
2016.9.22作成
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