膳所城模擬城門
 前日に大雪降った三月のある日。
 相方さんと私は旅に出ました。相も変わらず行き先も決めないいい加減な旅でございます。
 何となく走っていると第二京阪道へ。
滋賀県にでもいってみるか〜ということになりました。
 京滋バイパスは瀬田東JCT手前で大渋滞。
渋滞を嫌って南郷ICで高速を降り、県道3号線、国道422号線を走ります。
 石山寺を左に見ながら走り、国道1号線を横切って県道102号線を北上。
大津市の膳所(ぜぜ)までやってきました。

膳所城本丸跡。
手前に転がっている石は、
膳所城本丸の石垣です。
 膳所城の歴史は新しく、築かれたのは1601年のこと。
 前年の関ヶ原合戦において攻城戦が繰り広げられた大津城を廃止しまして、
ここ膳所に新たに築城されました。
 大津城は現在の浜大津のあたりにあったお城で、山に近いため攻撃を受けやすいために再建をあきらめ、東海道の要所「瀬田の唐橋」にもほど近い膳所が築城地として選ばれたようです。
 初代城主は戸田一西で、2万5千石でした。
 子の戸田氏鉄は尼崎へ移り、その後には本多康俊が、次いで菅沼定芳石川忠総・憲之と続いて本多俊次が7万石で入り、以後明治維新まで本多氏が続きました。
 膳所城は琵琶湖に突き出した水城として築かれたため、地盤が悪くて補修が大変だったようです。特に寛文二年(1662年)の大地震では天守が傾き、本丸や二の丸の櫓が土台とともに湖へ崩れ落ちたそうです。
 そのときに城の縄張りが変わっていまして、旧本丸と二の丸が一つになって新本丸に、旧三の丸が新二の丸になり、そこに藩主の御殿などが置かれました。

近江大橋

膳所城中大手門
膳所城には3つの大手門がありました。
 本丸跡は公園になっており、県道102号線を挟んで西側に小さな駐車場があります。
 そこに車を駐めまして、城跡巡ります。

膳所神社
旧膳所城本丸大手門が表門として移築されています。

京阪電鉄石山坂本線
膳所本町駅にて
 本丸跡の模擬城門からまっすぐ西に歩くと、中大手門跡膳所神社があり、膳所本町駅にたどり着きます。
 ここから京阪電車に乗りまして、二つ先の瓦ヶ浜駅に向かいます。

電車がやってきました。

本多神社
本多家の家紋「立葵」が見えます。
ちなみに膳所藩本多家は本多忠勝の家系ではないです。
 瓦ヶ浜駅から東に少し歩いたところに、本多神社があります。
 ここには膳所藩の浜御殿があったそうで、今では膳所藩主を祀った本多神社となっています。
 ここに膳所藩の資料館があるんですが、あいにく休館。神社も門が閉ざされていて中に入れず。
 周りはと見てみてもアパートと駐車場に囲まれており、とても風情があるとはいえない場所でした。
 がっかりして駐車場まで歩いて戻りました。

膳所城図
特徴的な本丸の形がよく残っています。
藩主屋敷は二の丸に、米蔵は北の丸にありました。本丸と二の丸は廊下橋でつながれていました。

県道559号線
 膳所城を後にして近江大橋を渡り、県道559号線を北上します。
 対岸の比叡の山々は白く雪化粧していました。
 有名なピエリ守山の前も走りましたよ。
 ほんと人いませんでした(^^;

琵琶湖大橋

八幡山が見えてきました。
 ひたすら琵琶湖湖岸を走っていると、八幡山が見えてきました。
 ここで県道326号線に入り、八幡山のふもとを目指します。
 ここ八幡山には、かつて八幡山城がありました。
 豊臣秀吉の甥であった豊臣秀次は、紀州攻めなどで功があり、天正13年(1585年)近江で43万石(内家臣領23万石)を与えられ、ここ八幡山に城を築きます。
 築城当時、八幡山の三方には琵琶湖水面が広がり、琵琶湖水運を押さえる要衝でした。すぐ近くにある安土城の建物や城下町が移され、近江国の中心地となりました。
 1590年に秀次は尾張清洲へと移され、後には京極高次が入りますが、豊臣秀次失脚時に大津城に移され、1595年には廃城となりました。

登城前に赤こんにゃくをいただきます。
 八幡山城は、山上の城部分と麓の居館部分に分かれています。
 山上のお城を見に行くことにしたのですが、山登りがめんどくさいので、ロープウェイで登ることにしました。
 売店で赤こんにゃくを買いました。
 酸化鉄を利用して赤く染めているそうで、滋賀県の名物らしいですよ。
 味はふつうにこんにゃくですが(笑)
 ロープウェイに乗るとあっさりと山上に到着します。
 いきなり石垣がお出迎え。テンションも上がります。
 三の丸はロープウエイの駅になってしまってまして、この石垣は二の丸のものです。

いきなり石垣がお出迎え
二の丸の石垣です。

算木積みの石垣です。

本丸西側の石垣
 現在本丸跡には秀次ゆかりの瑞龍寺が移されてきています。
 本丸はさほど大きくなく、詰めの城としての機能しかなかったものと思われます。

西ノ丸から北側を見る

城の南側展望
 城は標高が高く、眺望は最高でした。
 安土山や観音寺山も見えますし、かつては琵琶湖を行き交う舟も一望できたことでしょう。

ロープウエイで下ります。

クラブハリエ
 八幡山の麓には、クラブハリエがありました。
 バームクーヘンで有名らしいです。
 相方さんは来たことあるそうですよ。

とりあえず昼食前のおやつ

八幡堀の風景
 近江八幡と言えば、八幡堀の風景はつとに有名ですね。
 かつては運河として商品輸送に活躍したそうです。
 この八幡堀も秀次時代に整備されたそうです。

お昼ご飯は近江牛の牛丼。
ステーキは高かったので・・・

醤油やさんだった建物
 江戸時代、近江八幡は商都として栄えました。
 今でも風情のある建物がたくさん残っていて、多くの観光客が訪れています。

いい感じですよね

旧八幡郵便局舎
 この日もたくさんの観光客が来てました。
近江兄弟社
メンタームで有名

八幡堀と八幡山
 町の散策も終わったので、山麓にある秀次居館跡に向かいます。
 市立図書館の奥が八幡公園という公園になってまして、その奥に居館跡があります。

案内板

石垣出現
重臣の屋敷跡です。
 かつての大手道の両側には石垣を持つ段々があり、重臣たちの屋敷地となっていました。
 屋敷地の一番奥に虎口が出現。
 この奥が居館跡です。

虎口発見

虎口付近の石垣
 クランク状に築かれた虎口を抜けると、草ボウボウになった平地が・・・
 とても中には進めそうにないので、虎口の写真だけで引き返すことにしました。

埋もれてしまった石垣

秀次公銅像
 麓の公園には秀次公の銅像がありました。
 この秀次公はかわいそうな人物で、おじさんに振り回された人生だったのです。
 豊臣秀吉の姉の子として生まれた秀次。浅井攻めでは、近江の宮部継潤人質として養子に出されます。
 次いで四国の三好氏の養子に。小牧・長久手の合戦では家康軍に破れ、秀吉から叱責を受けます。
 その後の紀州攻め・四国攻めでは活躍し、近江で43万石を与えられました。
領内では善政を行ったそうで、今でも近江八幡では評判いいそうです。
 北条攻めでは山中城を半日で攻め落とすなど活躍。その後も葛西大崎一揆や九戸政実の乱など奥州各地を転戦します。
 この功で清洲で100万石を与えられ大大名に。さらに秀吉の実子鶴松が亡くなると秀吉の養子となり、関白に就任
秀吉の後継者となります。
 が、秀吉に秀頼が生まれると立場が微妙になり、いろいろありましたが所領没収のうえ高野山に追放となります。
 高野山で出家しますが許されず、そのまま切腹。享年28歳でした。
 さらにその妻子ら39名も京都三条河原で切られ、血統は根絶やしにされました。
 この秀次さえ生きていれば、徳川家康の台頭はなかったという説もあります。

八幡山城見取り図
山上の城と麓の居館の位置関係が分かります。

義経烏帽子かけの松
 八幡山城から県道326号線を南に走り、国道8号線へ。
 以前にも訪れたことのある、竜王町鏡にやってきました。
 前回もご紹介しました鏡神社を訪問。お参りしてきました。

鏡神社本殿
 道の駅にも立ち寄り、お土産物を物色しました。

義経元服池(のはず)

井上館土橋
 一度来たのになぜまた来たのかって?
 井上館を訪問するためです。
 前回訪問した星ヶ崎城。
 その星ヶ崎城を支配した鏡久綱が住んだと言われているのが、この井上館なのです。
 周囲に堀を巡らせた小さな館なのですが、今でも前面の堀が残っており、鏡氏の末裔と言われている井上さんが、今なお住んでいるそうです。

館前面の堀

看板

この溝が、岐阜・滋賀の県境です。
 だいぶ時間も押してきました。
 竜王ICから名神高速道路にのりまして、米原ICで降ります。
 ここからは国道21号線(中山道)を東に走ります。
 中山道59番目の宿場町、今須へ。
 ここは美濃・近江国境でして、細い溝がその境でした。

寝物語の碑

宿場町らしい雰囲気が残っています。
 関西ローカルの番組で紹介されていたので、どんなところかと見にやってきたわけです。
松尾芭蕉の句碑もありました。

平塚為広の碑
 美濃国境を越え、国道21号線をしばらく走ると、そこは関ヶ原
 東西両軍が激突した場所です。
 不破関資料館手前の信号を左折してしばらくすると碑が立っていました。
 車を降りて碑文を読むと、平塚為広がこのあたりに陣を張っていた、と書かれていました。

平塚家の家紋

案内板
 平塚為広は怪力の持ち主だったと言われ、関ヶ原合戦当時は美濃垂井1万2千石の領主でした。
 合戦には360人の軍勢を率いて西軍に参加。大谷吉継の前衛として、関ヶ原南西の藤川台に布陣していました。
 小早川勢や脇坂勢などと交戦しますが、衆寡敵せず小川祐忠の家臣に討たれたと言われています。
 平塚らいてうは平塚為広の子孫だそうですが、ほんとでしょうか?

大谷吉継の墓
 平塚為広の碑から少し離れたところにある案内板付近に車を駐め、奥に歩いて行くと、大谷吉継の墓があります。 
 

大谷家家紋

大谷吉継陣跡の案内板
 大谷吉継は小早川秀秋を牽制するため、松尾山の向かい藤川台に布陣しました。
 ここで小早川や脇坂勢の寝返りにあい、多勢に無勢で破れました。
 松尾山眺望地から松尾山を見上げてみました。
 自陣へ向かって駆け下りてくる小早川勢を見たとき、吉継の胸中を去来したのはどんな思いだったのでしょうか・・・
 日没近い時間でしたが、他にも何組か見学に来ていました。
 みんな歴史が好きなんですね〜

松尾山を見る

松尾山眺望地の案内板
 
関ヶ原の図
 国道21号線から県道1号線県道151号線とつないで岐阜市街へ。
 途中のラーメンやで台湾ラーメンを食べますが、これが激辛
 なんとか食べきりますが、のちのち大惨事に。
 帰り際、店長さんが「辛かったですか?」と聞いてきましたが、思わず「辛ーよ!!!」と言いそうになりました。
 お夜食はクラブハリエの「バームクーヘン」と、道の駅鏡の里で購入した
「元服餅」
 元服餅、意外とおいしかったです。おすすめ!
ふらり歴史旅 近江・美濃・尾張編 続く
2015.2.1作成
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