大和街道沿いには現在の道しるべが整備されていました。
 さて、世間はGWでございます。
 テレビからは関西ではおなじみ宝塚トンネル付近大渋滞のニュースが流れておりました。
 大渋滞に巻き込まれるのは時間の無駄ですので、近場をうろつくことにしました。
 先日の五條新町に味をしめまして(笑)、和歌山街道(和歌山県内では大和街道)を再び訪問することにしました。
 和歌山県は紀の川市へ向かいます。
 紀ノ川市は、平成17年に岩出市を除く旧那賀郡の5つの町(貴志川町・桃山町・打田町・粉河町・那賀町)が合併してできた市です。歴史も深く、農業も盛んな街なんです。
旧桃山町には毎年桃を買いに出かけております。
 今日は旧那賀町名手市場にやってきました。
 ここには名手本陣があります。
 紀州徳川家が誕生した際、その所領は紀州(現:和歌山県)で37万石余り、勢州(現:三重県)松阪領で17万石余り、和州で2千石の55万5千石でした。
 初期の紀州徳川家では領民にその権威を見せ付けるため、参勤交代は和歌山〜五條〜高見峠を経て松阪へ至り、そこから船で伊勢湾を横断するというルートを取っていました。
 そのため、大和街道沿いに宿場町が整備されました。岩出清水とここ名手橋本の三箇所でした。
 名手では地元の名家であった妹背家宅が本陣として利用されました。
 妹背家は中世以来紀伊八庄家のひとつとして数えられた名家で、名手庄・丹生庄を治めた土豪でした。江戸時代には名手組19村の大庄屋で、明治維新まで勤めています。
 

街道沿いの建物にも風情がありますな。

名手宿本陣表門
 名手宿本陣は正徳4年(1714年)に市場村の火事で焼失。1718年に6代藩主宗直候を迎えるために改めて新築され、延享3年(1746年)に増築されて現在の姿になったそうです。
式台

釘隠し
 式台とそれに続く畳敷きの廊下が本陣らしさを出しています。
 畳敷きの廊下の突き当たりに三の間があり、そこから二の間、御座の間と続きます。
 御座の間の前には杉戸を通って行くようになっています。

杉戸がありました。

二の間から御座の間(一の間)を見る。
床が一段高くなっています。
 本陣にやって来た殿様は、御座の間に滞在しました。
 御座の間部分の屋根には、三つ葉葵の紋入り瓦が使われていました。

御座の間
一段高くしつらえられています。
床の間に違い棚、天袋、典型的な書院造りです。

土間天井の煙抜き窓
 土間はかなり広かったです。さすがは大庄屋さんですね。
土間にはかまどが

流しと水を保管する甕

井戸屋
 土間のすぐ外には井戸屋がありました。
 緑泥片岩を組み合わせた井桁は見ごたえがありました。
 この岩は和歌山県北部と徳島県などで取れる石でして、徳島城や和歌山城の石垣にも使われています。

緑泥片岩を井桁に使った井戸。
ものすごいですね。

 こちらは母屋西側にある蔵。
 寛永年間の棟札があることから、火事で焼けずに現存していると考えられています。

蔵の内部
 施設にいた女性の方に蔵の扉を開けていただきました。
 なんと蔵の中には床の間が設けられていました。
 妹背家は本陣のため、殿様などのお成りの際は母屋を明け渡す必要がありました。
 その間は内部を改造したこの土蔵で生活したそうです。
 大変ですね・・・・(^^;

米蔵
 本陣内にはもうひとつ蔵があり、こちらも寛永年間に建てられたものだと考えられています。
 こちらの蔵は内部二階建てなんだそうです。(珍しいつくりとのこと)
 本陣の裏には空き地があり、崩れた土塀に屋根がかけられていました。
 郡役所の跡なんだそうで、お白州の跡なんかがあるそうです。
 発掘調査が予定されているそうです。
 さて、ご紹介した名手本陣は、なんと入場無料!
 近くに来たときはぜひお立ち寄りください。
(月曜日は休館のようです)

脱穀するためのものかな?

大和街道
 本陣を後にして東に向かいます。
 いかにも街道らしい風情の道を続いています。
写真の石橋は大正年間にかけられたもののようです。

華岡青洲の屋敷跡
この長屋では講義が行われたり、薬草を保存したりしていたそうです。
 名手本陣の近くには華岡青洲の屋敷があると教えられたので訪ねてみました。
 こちら「春林軒」
入場料は600円!

 しかしまあせっかく来たので入ってみました。
(^^;

こちらは病室
三畳一間です。

母屋
 華岡青洲って?
 華岡青洲さんは1760年11月にここ紀伊国那賀郡名手庄西野山村に生まれました。
 京都などで医学を勉強して1785年に帰郷。父の跡を継いで医者となります。
 江戸時代は麻酔がなく、外科手術は麻酔なしで行われていました。
華岡青洲はなんとか患者の苦痛をやわらげたいと考え、様々な文献を参考にして麻酔薬の開発に取り組みました。
まんだらげ(チョウセンアサガオ)やトリカブトなどを配合した麻酔薬を作り、動物実験を繰り返しては配合を変えていきます。
しかし動物実験だけでは限界があります。まずは自分で服用してみたようですが、足に麻痺が残ってしまい、回復に一年かかったそうです。
行き詰まった青洲に対し、母と妻が人体実験に協力を申し出ます。
青洲は悩んだ末に母と妻に対して人体実験を開始。
妻が薬の副作用で失明するなどの犠牲を払った結果、ようやく麻酔薬が完成。
通仙散と名づけられました。
(小説ではありますが、有吉佐和子さんが「青洲の妻」って本を書いてます。
よろしかったらご一読を)
 世界初の麻酔手術は1804年11月14日に行われました。
 大和国五條に住んでいた60歳の老婦人に対し、全身麻酔下の乳癌摘出術が行われて成功しています。
 その評判を聞きつけ、全国から弟子が殺到。壱岐国(現:長崎県壱岐島)を除く全国各地から弟子がやってきました。
 自宅兼診療所で医塾「春林軒」を開設して後進の育成にも取り組みました。
 紀州藩医にも取り立てられますが、青洲は庶民の治療ができなくなると自宅での治療を続けることを願い出て許されています。
 亡くなったのは1835年11月21日。享年76歳とのこと。
とっても立派な方でして、地元では結構有名人なんですよ。

またも道しるべ発見。
 名手市場を後にして背の山を越えてかつらぎ町へと向かいます。
 かつらぎ町笠田(かせだ)というところで国道24号線を離れて再び大和街道へ入ります。
 近くの空き地に車を停めて歩きだしました。

立派な蔵です。
 大和街道沿いに、さっそく立派な蔵を発見しました。
 奥にはレンガ造りの煙突も見えます。
もしや酒蔵では?!

煙突が見えます。

やっぱりそうです。
看板発見
 やっぱり酒蔵だったようです!
 屋敷内に建てられた街灯に、
「清酒 南海 草田酒造」
の看板を発見しました。
 かつらぎ町近辺は江戸時代「川上酒」と呼ばれた日本酒の一大生産地でした。
 川下の和歌山城下はもとより、遠く江戸にまで出荷されていたそうです。
(*「帯庄酒造訪問記」でもご紹介しています。)
 草田酒造さん、残念ながら今は造りをやめておられるようです。
 今ではかつらぎ町内では初桜酒造さんだけが造りを続けています。
初桜酒造さんHP

一字一石塔
 草田酒造さんを後にして、大和街道を東に歩くと、一字一石塔を発見。
 一字一石塔はですね、法華経を一文字づつ小石に書いて地中に埋めて、その上に石塔を建てたものなんです。
 石塔の横には建てられた日と人の名前が彫られていました。
 文政12年といえば西暦1829年でして、シーボルトが日本地図を国外に持ち出そうとして国外追放されたり、松平定信が亡くなったりしております。

文政12年6月
酒屋利兵衛
と読めます。

街道らしい風情が残っています。
 街道をてくてく歩いていると、前方に大きな木を発見しました。
 近くまでくると、その巨大さに圧倒されます。

ものすごいでかさ

解説板
 木の下に解説版がありました。
 「十五社(じごせ)の楠」
と呼ばれているそうです。
 本幹の周りが13.5mあり、支幹が八方に広がり森のようにみるのが名前の由来だそうですよ。

樹齢はなんと600年以上

木には小さな社もありました。
 しばし楠の周りを巡った後、再び大和街道を東に歩きます。
丸みを帯びた屋根の家を多く見かけます。

昔はこんな家をたくさん見かけたのですが
 私が小学生くらいの頃には、まだまだこんな感じの家がたくさんあったのですが。
 最近は建て直しされたり、更地になっていたり、寂しい限りです。

この界隈でも少なくなってきていますね。

昭和の洋品店
 いつ営業をやめたのかはわかりませんが、昭和のたたずまいを残した洋品店がありました。
立派な土蔵を発見

なにかのおまじないでしょうか?
 さらに歩くと今度は立派な土蔵を発見。
 かなりの大きさです。
軒が下がってきているようで、鉄骨で補強されていました。
 米蔵だったのでしょうか?

入り口の仕上げがすばらしいですね

かつての酒屋さん
 このあたりは黒漆喰の家が多いようですね。

ここにも今はなきお酒の名前が
野半酒造店
「清酒寿久」「清酒酒徳」とあります。 
 笠田駅前までやってきました。
 笠田駅前には三階建ての大きなお店が建っていました。
 今はなきお酒の看板が残っていました。

「清酒南海 草田酒造」
をはがした跡が残っていました。

根来寺山門
 連休終わっての週末。
 今度は岩出市にある根来寺を訪ねてみました。
 根来寺は新義真言宗の総本山。開山は覚鑁(興教大師)です。
 覚鑁は20歳で高野山に入り、空海以来の秀才と言われました。
36歳の時に堕落した高野山を改革しようと立ち上がりますが、改革を嫌う高野山の僧侶たちに返り討ちにあって山を追われてしまいます。
 そこで覚鑁は根来寺を創建。新義真言宗の開祖となりました。

阿仁王
 根来寺は室町時代末期に
僧坊450
寺領72万石
僧兵1万
を数える大勢力となりました。
 また根来寺の僧が火縄銃一丁を持ち帰ったため、火縄銃の生産も行われていまして、火器で武装した僧兵というまさに鬼畜 悪夢のような軍団だったわけです。
 織田信長とは良好な関係でしたが、次の豊臣秀吉の時代、小牧長久手の戦いで徳川方についたため、秀吉軍の侵攻を受けます。

吽仁王

大師堂
1391年建立と推定
(国重要文化財)
 根来寺は秀吉の前に敗れ、400万平方メートル(東京ドーム85個分)を誇った寺域は根本大塔など一部を残して灰燼となりました。
 江戸時代に入り、紀州徳川家の庇護の下再建されました。

1547年完成の大塔
(国宝)

大師堂から庭を見る
 大塔には、秀吉軍に攻められた際の弾痕が残っているらしいので探してみました。
 これでしょうかね?
よくわかりませんでした(^^

火縄銃の弾痕?

大塔
 根来寺の立地ですが、寺の前面には山があり、寺に入るには東西からしか入り口がありません。
 福島県にある二本松城とよく似た立地になっています。(あと一乗谷とか)
 やはり寺というより城に近いという感じを受けますね。
 現在は背後の山が採石場になったりして周辺の景観がかなり悪化しています。
 いつも思うのですが、和歌山県は文化財に対してひどく冷淡な気がします。
 もっと大事にして後世に伝えてほしいものです。

伝法堂
文政10年(1827年)再建

山と川に囲まれ、盆地の入り口を池でふさいだ要害の地にあるのが良くわかります。
紀北の休日 完
2014.5.11作成
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