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![]() 浜田城CG復元図 |
浜田で迎えた三日目の朝。 早朝散歩ということで、浜田城を再訪しました。 浜田城は江戸時代を通じて浜田藩の居城でした。 |
![]() 浜田城縄張り |
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![]() 江戸時代の浜田城絵図 |
(以前にも書きましたが、一応書きますね) 浜田藩の初めは古田重治。 大阪の陣などで功ありとして、元和5年(1619年)伊勢松阪からこの地にやってきます。 翌年に築城を開始し、元和9年(1623年)に完成。 古田家は次代重恒の時に古田騒動を起こして改易。後には播磨山崎から(松井松平家)松平康映(やすてる)が6万1千石で入ります。松平家は5代続いて下総古河へ。 代わりに本多忠敝が下総古河からやってきます。この本多家の官名は 「中務大輔」。 平八郎忠勝から続く家柄なんですが、大和郡山藩時代に相続でもめまして、石高が少なくなってしまいました・・・。 この本多家は三代続いて三河岡崎へ。先の松平家が再び浜田に戻ってきます。 三代松平康任(やすとう)の時代に、清・朝鮮との密貿易発覚! 次の康爵(やすたか)の時に、譜代大名の左遷先である陸奥棚倉へ移封となりました。 後は(越智松平家)松平斉厚(なりあつ)が入ります。この越智松平家は、6代将軍家宣の弟である清武から続く家柄です。 4代後の武聡(たけあきら)の時、大村益次郎率いる長州藩兵に攻め込まれ、防戦せずに城と城下町を焼いて撤退。 美作鶴田(現:岡山市北区建部町)に藩の飛び地があったためにそちらに移り、浜田は占領されたまま明治維新を迎えました。 |
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![]() 三の丸入り口 |
そんな訳で城の建物は残っていませんが、石垣は現存しています。 | ![]() 三の丸へ |
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![]() 石垣の跡 |
前回訪問時にも書きましたが、本来石垣があった場所が崩されて公園内の通路になっています。 | ![]() |
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![]() 出丸 |
出丸には山中への出口となる出丸木戸がありましたが、草むらでよくわかりませんでした。 出丸から本丸に登ります。 本丸は南北60m、東西50mほどの広さです。 本丸西北隅には三重櫓(天守)がありました。天守台は築かれず、本丸に直接建てられていたそうです。 海側から良く見えたでしょうね〜 |
![]() 石垣 |
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![]() 本丸 |
![]() 本丸西北には天守がありました。 |
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![]() 本丸からの眺め |
浜田は北前航路を押さえる要衝でもあり、行きかう船で栄えた町でした。 藩のために密貿易を行い、死罪となった商人をたたえた碑もあるそうです。 |
![]() 浜田は北前航路の主要な港町でした。 |
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![]() 外の浦 |
本丸入り口は一箇所で、まっすぐ曲輪内に入れる平入虎口となっています。 本丸内には天守の他に、玉蔵と呼ばれる弾薬を収めた蔵があったそうです。 |
![]() 本丸虎口 (平入虎口です) |
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![]() 門柱の礎石が残っていました。 |
本丸門に接続して6間長屋がありました。 | ![]() 城内各所にある解説板 |
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![]() 本丸虎口 |
浜田藩では櫓として扱わず、あくまで倉庫的な建物という扱いだったようです。 | ![]() 六間長屋(多門)跡 |
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![]() 二の丸枡形虎口 |
一方二の丸には浜田城唯一の枡形虎口が設けられていました。 三の丸に面して櫓門が建てられていました。城内でも目立つ門であったようで、絵図にも描かれています。 |
![]() 三の丸から枡形内を見る。 |
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![]() 解説板 |
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![]() 三の丸入り口 |
二の丸馬出状の三の丸は広さもあまりありません。 早朝散歩を終えて出発することにしました。 |
![]() 袖石垣が三段にわたって築かれてます。 |
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![]() 浜田城 |
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![]() 波子浜海水浴場 |
浜田から国道9号線で北に向かいます。 途中、波子浜海水浴場に立ち寄りました。 山陰の海岸はほんとにきれいですよね〜 |
![]() 前回の旅ではここで夕日を待ちました。 |
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![]() 江の川 撮影:相方さん |
江津市に入りまして、江の川を渡ります。 | ![]() 江の川 |
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![]() ゆずとたこのてんぷら |
道の駅「さんぴこ江津」で一休み。 地元産のものを物色。 |
![]() 久々に復活。 コーヒー牛乳シリーズ |
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![]() 結構おいしかった梨ジュース |
お土産にシジミラーメン買ってみました。 これが結構おいしかったのです。 おすすめです。 |
![]() 道の駅で見かけたポスター 島根県スーパー観光大使「吉田くん」 |
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![]() 原材料 |
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![]() 看板発見 |
さて、国道9号線の北上を続けていると、 「不言城」 という看板を発見しました。 気になってUターンしまして、看板まで戻ってみました。 解説板を見てみると、あの吉川経家の居城だったとあるではないですか! という訳でさっそく登ってみることにしました。 最初はお寺から登ろうとしたのですが、工事中のため断念し、もう片方の登山口から登ることにしました。 |
![]() お寺からも登れるそうですが、 この日は工事中で通行止め |
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![]() 標識を頼りに登り始めます。 |
![]() 館跡と標識 |
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![]() 登り始めました。 |
不言城は福光城ともいいまして、最初は福光氏の居城でした。 その後、1559年に毛利家家臣の吉川経安(きっかわつねやす)がこの地を与えられた際、居城として改修しました。 福光城は二つの街道を見下ろし、また近くに湊や銀山をもつ要衝でして、毛利と尼子の係争地でもありました。 経安はこの城をよく守り、1561年には5000の尼子勢を当時珍しかった鉄砲を使用して迎え撃ち、撃退に成功しているそうです。 |
![]() 人の手が入った石を発見 ひきうすかな? |
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![]() 狭い山道を登っていきます。 |
経安の子、吉川経家(きっかわつねいえ)は、この城から鳥取城主となるために鳥取へと赴きました。 その後の運命はみなさんご存知のとおりでしょう。 経家の子、吉川経実(つねざね)は、毛利氏の防長移封の際、本家筋にあたる吉川広家に従って岩国へと移り、福光城は廃城となりました。 |
![]() 番所跡まできました。 |
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![]() 番所跡には低いながらも石垣がありました。 |
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![]() さらに登っていきます。 |
吉川といえば、元春、広家が有名です。 藤原南家工藤流の家で、駿河の国入江庄吉川(現:静岡市清水区)が発祥の地です。 承久の乱で功があり、安芸の国に所領を与えられ、鎌倉時代末期に安芸に移住したのが宗家でして、吉川元春へと続きます。 |
![]() 井戸跡 |
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![]() 雨水をためるタイプの井戸なんですかね? |
石見の吉川家はその傍流で、石見の国に所領を得て土着した一族になります。 | ![]() ようやく三の丸に到着 |
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![]() 現在も国道9号線と県道32号線を見下ろしています。 |
番所跡、井戸跡を過ぎて山道を登っていくと三の丸に到着。 城内で一番眺めのいい曲輪で、近くは国道9号線と県道32号線を見下ろし、遠くは日本海を眺めることもできます。 |
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![]() 三の丸から二の丸を見る |
三の丸から一段登ったところに二の丸があります。 ちょっと藪になってまして歩きにくいですが、二の丸へと向かいます。 |
![]() 二の丸とはかなり段差があります。 |
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![]() よくある看板 |
二の丸には石見吉川氏にゆかりのある土地などへの方向や距離を示した看板が建てられていました。 ここには解説板もあり、縄張りなどがわかるようになっています。 |
![]() 福光城縄張り |
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![]() 二の丸 |
二の丸と本丸は1mほどの段差しかありません。 一体的に運用されていたのでしょうか? |
![]() 二の丸から本丸を見る |
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![]() 本丸は小さいです。 |
ようやく本丸に到着しました。 大きな木が木陰をつくっていて、ベンチなんかもありました。 本丸はあまり大きくなかったです。 |
![]() 本丸から南東方面を見る |
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![]() 下山開始 |
日差しは強いですが、風が気持ちいいです。 少し涼んでから下山を開始しました。 |
![]() 番所跡の石垣 |
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![]() 足元に気をつけて下ります。 |
中国地方には戦国期の山城がよく残っていて楽しいですね。 羽衣石城とか、月山富田上とか・・・ なかなか見所は多いです。 |
![]() 矢筈竹 |
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![]() 福光城遠景 |
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![]() 福光城縄張り |
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![]() サバ寿司 |
車に戻って再び国道9号線を北上します。 時刻がお昼になったので、鳴き砂の浜として名高い琴が浜で海を見ながら昼食としました。 |
![]() なき砂の浜 |
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![]() きゅっきゅっとなきます。 |
さっきの道の駅で買ったサバの姿寿司を食べたのですが、残念ながらいまいちでした。 (^^; しかし景色はすばらしく、ご飯を済ませた後で砂を鳴らしてしばし戯れました。 |
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走れ!れんと山陰へ 続く | |||
2014.6.22作成 | |||
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