おばあちゃん市・山岡にて
(道の駅です)
 国道19号線から県道20号線へ。
 さらに県道33号線を走ります。
 道はやがて国道363号線、国道257号線と合流。
 ようやく目的地である岩村に到着しました。

どこで撮ったか忘れました

現地案内板
 ここ恵那市岩村町には、日本三大山城(備中松山城、高取城、岩村城)として名高い岩村城があります。
 今回ようやく訪れることができました。

現地案内板より

入り口にある立派な石碑
 ここ岩村の地は、遠山景朝以来遠山家が治めていました。
 遠山氏は鎌倉時代に現在の恵那市・中津川市にあった遠山荘の地頭となり、遠山姓を名乗りました。
 元亀元年(1570年)遠山景任の時代、武田家武将の秋山信友に攻められますが、明智光秀の援護もあり、これを退けたとあります。
 景任が亡くなり、遠山家は断絶。景任の妻が織田信長の叔母だったこともあり、信長の5男坊丸(のちの織田勝長、信房とも)が遠山家の養子となります。
 その後も武田勢の攻勢は続き、信長の叔母(おつやの方と呼ばれるが、名前は不明)は、自分が秋山信友の妻になることを条件に開城します。
 哀れ坊丸は甲州へと送られてしまいました・・・

岩村のご当地マンホール
 その後、武田家は長篠合戦を境に衰退・・・
 岩村城は織田信忠率いる織田勢に攻められて落城。
秋山信友、その妻おつやは長良川河川敷で磔にされてしまいました・・・
 岩村城は信忠旗下の河尻秀隆が城主となります。
 武田家が滅亡した後、河尻秀隆は甲斐へ転封となり、あとには団忠正が入ります。
団忠正はなかなか血の気の多い方だったようで、軍令違反の抜け駆けを何度もやってます(^^;
 この団忠正は本能寺の変で、信忠とともに死亡。
 信州川中島から逃れてきた森長可(森蘭丸の次兄。鬼武蔵の異名を持つ)が、城を接収しました。
この森長可、戦国の世といえかなり鬼畜なエピソードで有名でございます(笑)
 小牧長久手合戦では、森長可は舅の池田恒興とともに出陣。
 森長可に追われ、徳川家に身を寄せていた遠山利景(明知遠山家)は、好機とばかりに旧領の明知城を奪還。
 岩村城にも攻め寄せますが、こちらは失敗しております。
 小牧長久手合戦後、遠山家は再び追われ、岩村は森忠政(長可の末弟)の所領となります。
 森忠政が信州松代に移封となった後は田丸直昌が入城しますが、直昌は関ヶ原合戦で西軍についたため改易。
 松平家乗(大給松平家)が二万石で岩村城に入り、岩村藩が成立しました。
子の乗寿(のりなが)の時に浜松に転封となり、後には丹羽氏信が入ります。
この丹羽氏信は、小牧長久手合戦の時に岩崎城主だった丹羽氏次の次男さんです。
(氏次の弟氏重さんは、岩崎城を守備していたところを池田恒興らに攻められて討ち死にしております。)
 丹羽家は5代続きますが、氏音の時に藩内で騒動が起こったために移封されてしまいました・・・
 後には松平乗紀(のりただ)(大給松平家の分家。乗寿の次男乗政の子)が入り、以後明治維新まで続きます。

登城口にいたわんこ
 恵那地方の歴史を簡単に説明したところで、いよいよ登城開始です。
 登城口ではかわいいわんこがお出迎え。しばし戯れまして、本丸を目指します。
 城下の武家地跡には、下田歌子さんの勉学所が移築されていました。

下田歌子勉学所
下田歌子は岩村出身で、明治時代に宮中に仕え、また女子教育に取り組んだ人だそうで。

藤坂
一の門までの坂は藤坂と呼ばれていました。
加藤景廉(遠山氏の祖)の妻が輿入れの際に持参した藤の大木があったそうです。
 藤坂と呼ばれる坂を登っていくと、登城道がU字になった場所があります。
 戦時はここに臨時の門が構えられたそうで、初門と呼ばれていたそうです。

初門の解説板

初門跡

一の門跡
 登城道をさらに登っていくと、登城道がクランク状になっている場所があります。
 ここが一の門跡です。
 二層の櫓門が構えられ、門の左手には単層の多門櫓があり、門の右手には石垣がありました。
 門前左側には石塁があり、死角から敵が近づかないようになっていました。

一の門解説板

一の門 門内
 一の門内には番所があったそうです。
 門跡を過ぎると両側に武家屋敷地を見ながら、登城道は左に大きく曲がります。
 

道は左に大きく曲がります。

土岐門跡
 その坂を登り切った場所に、土岐門がありました。
 名前の由来は、遠山氏が土岐氏を破ってその居城の城門を奪い、ここに移築したという伝承です。
 残された絵図では薬医門で、今は城下の徳祥寺に移築されているそうです。

土岐門解説板

橋櫓台
 さて、道はここで江戸時代の登城道から少し外れます。
 正面に高石垣が見えてきました。
これが三重櫓跡です。その名のとおり三重三階の大きな櫓で、天守の代わりでした。
なぜこの位置にあるのかというと、城下町のメインストリートの正面にあり、城下町からよく見えたからのようです。

解説板
L字に折れた畳橋が分かります?
 櫓の正面に橋台があり、ここから特徴的なL字に曲がった「畳橋」が架けられていました。
 畳橋は、敵に攻められた際に畳のように橋板をはがすことができたので、この名前がついたそうです。
 攻め上ってきた敵は三重櫓を正面に見ながら橋を渡って左に折れ、大手門に取りかかる訳で、その右側面には三重櫓から攻撃がかかる仕掛けです。 

手前の石垣が畳橋のかけられた場所
奥が橋櫓台です。

ここから橋が架けられていました。
 橋は現在失われていまして、橋台と三重櫓台の間を抜けて大手門枡形に向かう形になります。
大手門内

武家屋敷地の間を登城道は進みます。
 大手門を抜けると、登城道は武家屋敷地の間を抜けています。
 右手には龍神井戸と、五郎左屋敷跡と呼ばれる城内住み込みの侍屋敷跡がありました。

龍神井戸

五郎左屋敷跡

霧ヶ井解説板
 龍神井戸を少し行った先に、霧ヶ井があります。
 敵から攻められると、この井戸から霧がわき出して城を隠したという伝説の井戸です。

霧ヶ井

さらに進んで屋敷地を左に折れると・・・
 ここで登城道を左に外れ、屋敷地を抜けて石段を登ります。
 ここには曲輪名の由来となった八幡宮があります。
 遠山氏の祖、加藤景廉を祀った社がありました。

八幡宮跡

解説板
 かつてここには二重櫓もあったのですが、今は鬱蒼とした森になっています。
現在の社

菱櫓解説板
 登城道に戻って進むと、左手に「俄坂門」と呼ばれる、城の裏門跡があります。
 かつて多門櫓を伴った櫓門があったようなのですが、現在は痕跡なしです。
 さらに進むと右手に高石垣が。
 これが二の丸にあった「菱櫓」の跡です。
 その名の通り、自然地形に沿って石垣を築いた結果として石垣が鈍角を描き、その上に櫓を築いたので櫓も菱形になったのです。

菱櫓台

このアングルの方がわかりやすいかな?

本丸六段石垣
 菱櫓の下を進むと、正面に高く積まれた石垣が。
「おおっ」
思わず声が漏れます。
 これが有名な「本丸の六段石垣」です。
 もともとこの形で石垣が築かれた訳ではなく、高石垣の崩落を防ぐため、前面に石垣(押さえ石垣)を築いていくうちに、現在の形になったそうです。
 岩村城と言えばこの石垣が紹介されるので、ご存じの方も多いはずです。

石垣の基部

解説板

アングルを変えて
 ここまでくると本丸までもう少し。
 六段石垣を右手に見ながら石段を登ります。
 登り切ったところが東の丸。
 本丸に対する外枡形の役割を持つ曲輪で、門脇に二重櫓がそびえていました。

アップしてみました
手前の石垣には二重櫓がそびえていました。
長局埋門跡  東の丸から本丸へは、長局埋門を通る必要があります。
 多門櫓の下に門を設けたため、埋門という名前がつきました。

礎石跡
 門跡には礎石が残っていました。
 この門を通過すると、帯曲輪(長局と呼ばれた)がありました。

長局埋門内側
両側の石垣に多門櫓を建て、
その下が門になっていました。
門の内側は長局と呼ばれた帯曲輪でした。

長局埋門跡からの眺め
 門跡からの眺めはすばらしく、しばらく眺めていました。
 振り返ると本丸で、あまり高さのない石垣がありました。
 
本丸入口
本丸北側にある門
左手には多門櫓がありました。

本丸門内部
 いよいよ本丸に到着しました。
 本丸には大小4つの門があり、二重櫓が2基、多門櫓が2基ありました。
 本丸内に建物はなく、広場になっていました。

本丸北東にある小さな門
大人一人通る幅しかありません。
 本丸内をぐるりと一周します。
 ここには織田信長も宿泊したことがあるそうです。

本丸南東からは出丸が見下ろせます。

本丸南側の石垣
かなりの高さがあります。
 本丸南側は高い石垣が積まれていて、その上には多門櫓が建てられていました。
 この方角が城下町に面しています。
 

本丸南西にある門跡。
小さいながら内枡形形式の門です。
この門脇は二重櫓がありました。


通路がこんなに狭いのです。

本丸北西門跡
平入りと呼ばれる真っ直ぐ進める門です。
本丸西側には、長局に降りる門が二つあり、長局西南隅には二の丸へと通じる埋門がありました。
 

北西門を降りてきました。

長局から見る北西門
 埋門跡までやってきました。
 山城らしい窮屈な門がありました。

本丸埋門跡
(長局から見る)
二の丸から本丸に入る門。
正面には二重の納戸櫓があり、
門を固めていました。

見事な曲線を描く
納戸櫓台
 しかし埋門脇を固めた納戸櫓台の石垣は見事な曲線でした。
二の丸から見る埋門跡
左側の石垣は江戸時代初期のものだそうです。

解説板
ふらり歴史旅 近江・美濃・尾張編 続く
2015.3.29作成
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