木曽川にかかる橋から苗木城を見る
 さて、中津川市街を後にしまして、国道257号線を走り、木曽川を渡ります。
 旅館のある交差点を右折してしばらく行くと苗木遠山史料館があり、その奥が苗木城の入り口になっています。
 苗木城遠山景村が南北朝時代に築いたと伝わります。
 遠山景村は岩村城でもご紹介した遠山景朝(遠山家祖)の弟で、子のなかった景朝の跡を継いで勢力を伸ばし、木曽川北岸に進出して苗木城を築きました。
 遠山氏は恵那郡の地頭として勢力を拡大。室山時代には七遠山遠山三人衆と呼ばれました。
 遠山三人衆とは、岩村、明知、苗木に拠点を置いた遠山一族を指します。
 戦国時代の苗木城主に遠山直廉がいます。直廉は岩村城主の遠山景友の弟で、織田信長の妹を妻としていました。この二人の間にはがあり、後の信長の養女として武田勝頼に嫁ぎ、武田信勝を生んでなくなっております。
 直廉亡き後、信長の命で飯羽間遠山家の友勝が苗木城主となり、岩村遠山家が武田家にしたがった後も織田方に残ります。
 友勝の子友忠は、甲州征伐の時に木曽義昌の内応を取り次いだと言われ、木曽勢と一緒に武田勢と交戦しています。
 織田信長亡き後は徳川家康とよしみを通じ、羽柴秀吉方の金山城主森長可と対立します。
苗木城は長可に攻められて落城。友忠は三河へと落ち延びます。
 友忠の子である遠山友政は徳川家に仕えて時節を待ちます。
 関ヶ原合戦時、友政は西軍の河尻直次の守る苗木城を攻め落とし、悲願の旧領を取り返します。徳川家康もこの功を認め、苗木城と1万500石の所領を与えました。
 ここに苗木藩が成立。遠山家は12代続いて明治維新を迎えます。

 他に明知遠山家遠山利景は同じく森長可に追われて徳川家康を頼っていまして、関ヶ原合戦時に明知城を奪還。そのまま明知領主として6531石の旗本となっています。
 この明知遠山家の分家の子孫が遠山左衛門少尉景元
そう、有名な「遠山の金さん」です。

足軽長屋跡
 さて、苗木遠山史料館裏手にある空き地に車を駐めて歩き出します。
 結構車多かったです。
 道なりに歩いて行くと、まずあるのが足軽長屋跡
 ここには城内警備の足軽たちの宿泊施設の他、小頭部屋、稽古場があったそうです。

解説板

寺の跡
足軽屋敷跡の南側には、「光耀山金厳寺龍王院」というお寺がありました。
 真言宗のお寺で、藩主祈願所でもあったそうですが、廃仏毀釈で壊されたようです。
 

さあいよいよ本丸を目指します。
 従来の登城ルートが通行止めになっていまして、その脇に作られた土手道を通って本丸を目指します。
巨岩がところどころ顔を出してます。

三の曲輪石垣と空堀
 本当であれば風吹門(大手門)から城内に入るのですが、三の丸空堀脇を通って二ノ曲輪から城内へ入ります。
二ノ曲輪石垣

ここから登ります。
登り切ったところが勘定所門跡。
門の二階が勘定所詰所でした。
 二ノ曲輪に登ると、目の前に幾重にも重なった石垣がそびえていました
 苗木城は露出した岩山の上に築かれているため、岩盤と石垣が微妙に組み合わさっています。
 それが苗木城独特の景観を醸し出しています。
 このあたりは備中松山城にも似たところがありますね!

みよ!この石垣は圧巻です。

御朱印蔵跡
 二ノ曲輪に登った正面に、一段高くなった小さな場所がありました。
 ここには御朱印蔵があったそうで、藩にとっての貴重な品々が納められいたそうです。
 御朱印とは、将軍から下された領地目録のことで、苗木藩が苗木を治める根拠となったものです。特に大事に保管されたと思われます。
 ここに上がる石段がないのは、はしごをかけて登っていたからだそうで、普段ははしごを外して防犯対策をしていたんでしょうねえ。

解説板

大門跡
奥に御朱印蔵跡が見えます。
 大門は苗木城で一番大きな門だったそうで、三の曲輪と二の曲輪を隔てていました。
 絵図には二階建ての櫓門として描かれています。門の幅は二間半。
 門扉は参勤交代の出発などの時しか開かれず、普段は潜り戸から出入りしていたそうです。
 

大門跡

大櫓跡
 三の丸隅には大櫓跡がありました。
 城内最大の建物で、城外側は二階建て、城内側は三階建てになっていました。
 三の丸大手にあたる風吹門を見下ろす位置にあり、寄せてくる敵に睨みを効かせていました。

岩盤上に直に積まれた石垣
 大櫓台に寄ってみます。
 露出した岩盤上に、直に積まれた石垣は見事の一言です。
 苗木藩は石高1万石足らず、城の規模も決して大きくありませんが、この個性が苗木城の魅力です。

すごいですねえ・・・

大櫓台に上ってみた
 大櫓台に上ってみました。
 絵図面でははしごが架けられていたようですが、今はなし。
 石垣に足をかけて登ります。
 結構大変でしたね(^^;

解説板

穴蔵部分拡大
倉庫として使われていたそうです。

大櫓台から三の曲輪見る
 しかし眺めは最高です。
 本丸が目の前に見えました。

大櫓台から本丸を見る

風吹門
大手門です。
 順序が逆になりましたが、風吹門跡にやってきました。
 ここは大手門、三の曲輪の入り口に当たります。
 絵図によれば二階建ての櫓門で、門に向かって右側に番所があり、城内への通行を管理していました。
 藩主在城の際は門扉が開かれ、参勤交代で藩主不在の際は閉じられていたそうです。

解説板

風吹門前から左手を見る。
大櫓がこちらを見下ろしています。
 風吹門前を左に曲がると、左手に小さなため池があります。
 雨水を溜めていた池で、馬の飲み水に使用していたそうです。
 風吹門横にはかつて厩があったので、馬をここまで連れてきたのでしょうねえ。

小さなため池

北門跡
 奥に見えるのは大櫓台
 ため池の先には小さな門跡がありました。
 北門と呼ばれていた門で、風吹門の北側にあったことこから、この名がついたそうです。
 門番はいなかったそうで、絵図では小さな番所らしいものが付属したように描かれています。
 この門を東に下ると木曽川に、北側に進むと家臣団の屋敷跡に出るそうです。

解説板

馳門跡
ここを下ると四十八曲がりです。
 風吹門を通って、再び城内に戻ってきました。
 三の曲輪には、風吹門と反対側にも門跡があります。
 これが馳門跡です。
 このあたりには材木蔵がありました。

水抜き穴でしょうか?

牢屋跡
 左の写真中央に一段高くなった場所がありますが、こちらが牢屋跡。
 二間、四間ほどの建物で、あまり日の当たらない大きな岩の上にあります。
 幕末に藩内を二分する政争が起きた際は、大活躍?したそうです。 

解説板

苗木城絵図
現地でいただいた地図の左半分です。
ふらり歴史旅 近江・美濃・尾張編 続く
2015.5.6作成
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