大観峰から阿蘇を見る
 小国からは国道212号線をひたすら南下。
 阿蘇までやって来ました。
曲がりくねった国道を降りていくと内牧温泉になります。
 この頃の私のテーマが「加藤清正の端城」でして、加藤清正は肥後一国を支配するにあたって領内にたくさんのお城を整備しました。
 そのお城を一つずつ見ていこうって訳です。
 

市立体育館裏の堀跡(古川)
 やって来たのは阿蘇城(内牧城)跡です。
 阿蘇カルデラ内を流れる黒川沿いの自然堤防の上に築かれたお城です。
天正年間には阿蘇氏の家臣辺春氏が在城していました。
 加藤清正の肥後入国後に小倉街道を押さえる城として整備が進められました。
 黒川の流れを付け替えて堀としたそうです。
加藤家の重臣、加藤可重・正方父子が城代を勤め、正方が八代に移ってからは、加藤正直が城代とナますが、元和の一国一城令で廃城となりました。
 加藤家の後に肥後の領主となった細川家は、豊後街道沿いにあった内牧城跡をお茶屋(本陣)として整備したそうです。
 豊後鶴崎(現在の大分市鶴崎)には肥後藩細川家の飛び地領があり、ここから船にのって大坂まで移動したそうです。

かつてお茶屋があったあたりの古川
 古川を堀に利用した梯郭式のお城で、付け替えた黒川が外堀の役目を果たしていました。
 今、市立体育館のあるあたりが本丸跡です。

お茶屋東側の古川
 かつての二の丸跡は細川時代は会所がおかれ、明治以降は阿蘇町の役場があってこのあたりの行政の中心地でした。
二の丸西側あたりの古川

二の丸東側は公園になっていました。
 加藤清正が領内に整備したお城は、最近まで行政の中心地だったのです。
内牧城石垣

古川を堀に利用した梯郭式のお城でした。
かっこ内は細川時代の建物の位置です。

豊後街道
 内牧城前の豊後街道には、観光客相手のお店がそこそこあって賑わっていました。
 温泉地ですしね。

クランクに街道の雰囲気が漂います。

細川家の殿様が通った道です。
 お昼ご飯にはまだ時間があったので、内牧市街から西に少し離れた場所にある豊後街道の遺構を見に行ってきました。
 ここから天空の道に上がれるのですが、通行止めになっていました。
残念。

こっちはおやつに購入。
 お昼になったので内牧市街に戻ってきました。
 阿蘇の名店いまきん食堂さんで、赤牛丼いただきました。
 結構な行列でしたが、何とかゲットできました。
 うれしー!!

とってもうまかったです。

阿蘇山からほのかに煙が
 最近火山活動が活発になったとかで、阿蘇山からは噴煙が登っていました。
 が、とくに危険を感じるようなこともなく、のんびりと見物していました。

外輪山に登って阿蘇を見る

ああ無情
 さっき通行止めだった天空の道の山手側の入り口までやって来ました。
 こちらも当然通行止め。
残念ですが、走ることはできませんでした・・・・

バイクを置いて歩きです。

天空の道
 近くにバイクを停めて歩いて端までいってみました。
いい眺めです。

これは見事な道ですなあ
 また工事終わったら走りに来たいなあ〜と思っていたら、2016年に熊本・大分地震&阿蘇山噴火。
 当分いけそうにないですねえ・・・

うねうねくねくね

どどど〜
 県道12号線から45号線を走って菊池渓谷にすこしよって見ました。
 新緑にはまだ早い時期で、お客さんもほとんどいませんでした。

いい感じです

こけの絨毯
 遊歩道を30分ほど歩いてみました。
日本の風景ですね

苔むした岩が好き
 人がいないのでゆっくり見ることができました。
 新緑とか紅葉の時期は恐ろしそうですね〜
 国道387号線を走って菊池氏発祥の地、菊池にやって来ました。
 菊池神社とか見たかったのですが、先を急ぎます。
 国道325号、443号を経由して南関町までやって来ました。
 九州自動車道をくぐって南関市街までくると、結構静かな場所でした。

滝もなかなかです。

南関お茶屋跡
 ここ南関にも加藤清正の端城がありました。
 南関城(鷹の原城)といいます。
 南関城は役場北側の台地上に築かれたお城です。
 豊前街道を見下ろす場所にあり、筑後との国境を固める境目の城でした。
 築城が始まったのは遅く、長らくこの地方の要衝であった大津山城に代わり、慶長5年(1600年)に、加藤家重臣加藤正次によって築かれました。
 加藤清正が自ら縄張りしたと伝わります。
 

解説板

南関お茶屋跡
 こちらも元和の一国一城令で廃城となりました。
 わずか15年で廃城です。
 その後、豊前街道沿いのこの地には内牧城と同じくお茶屋(本陣)が整備され、参勤交代などに使用されました。
 鹿児島から江戸に向かう途中の篤姫も、ここで休息されたそうですよ!

お茶屋内部

細川家の九曜門
 ここにはお茶屋の建物が現存しています。
 嘉永3年(1850年)起工され、嘉永5年に完成した建物です。
 随所に細川家の家紋である九曜紋があしらわれていました。
 ここで会社から携帯が鳴りまして、異動なしの通知が入りました。
 そういえば通知あるから休むなって言われてたなあ〜(苦笑)

欄間

南関城を見上げる
 気を取り直してお茶屋裏にある台地に登っていきます。
 南関城は比高40mほどの台地上に築かれました。
 ここ南関の地は要衝の地。
明治に入ってから西南戦争の戦場になりまして、南関城本丸跡に官軍墓地が設けられました。

案内板(柱?)

官軍墓地
 たくさんの石碑が並んでいました。
 私の出身県の方も何名かいらっしゃいました。
 平民出身で徴兵され、ふるさとを遠く離れたこの地で眠るとは・・・
ご冥福をお祈りしました。

基底部のみのこされた石垣
 さて本題。
 官軍墓地は南関城の本丸にありまして、墓地から少し離れた場所に、発掘された石垣の遺構が露出していました。

人為的に崩されているのがわかります。

ここが本丸跡
 南関城の石垣は城割によって破壊されていました。
 おもしろいことに、堀底にきちんと並べられて埋められているそうです。
 再利用する気だったのでしょうか?

瓦もありました。

石塁の跡でしょうか?
本丸北側
 本丸の西側に二の丸、南側に三の丸が構えられていました。
本丸北側の虎口跡

台地上からお茶屋を見下ろす
 以上、加藤家のお城レポをお届けしました。
 南関城縄張り図

南関城縄張り図
豊前街道の見下ろす台地上に築かれました。

南関城周辺図
筑後・肥後国境にあることがよくわかります。
まさに「境目の城」です。
 お城を見終わると夕暮れが近づいてきました。
 近くにあったいきいき村という道の駅みたいなところでしばし休憩。
 いきなり団子を買って食べました。
ここ南関には「南関あげ」という特産品があるそうです。
 結構大きなあおげさんだったのですが、買って帰ってお家で食べました。
結構歯ごたえのあるおいしいお揚げでしたよ。おすすめです。
 ここからどうするか迷いましたが、熊本市内に宿を取りまして九州自動車道で植木まで南下。植木近くには西南戦争の激戦地田原坂もあったのですが、時間なし。
 国道3号線を南下して熊本市街に向かいました。
 渋滞にイライラしつつようやく熊本市街に到着。
 熊本ラーメンを食べて終了です。

参考までに
加藤清正時代の本城と端城位置関係図
201503九州城巡り 続く
2016.10.30作成
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