京町から見た監物櫓
 翌日は朝食もそこそこにホテルを出発。
 熊本城に向かいます。
 姫路城も世界遺産だけあってなかなか見所も多いのですが、この熊本城も負けていませんよねえ。
 現在でもほぼ城域が残されていて見応えのあるお城なのです。
この日は県道303号線から熊本城の北側に回り込みまして、古京町から熊本城に入ります。
 新堀御門跡から城内に入ります。
 御門跡脇には、現存の監物櫓がそびえ、城内に向かう人々を見下ろしています。
 監物櫓は安政7年(1860年)に建てられたそうです。

監物櫓を見上げる
 監物櫓は正式には「長岡図書かり櫓」というそうです。
熊本藩細川家の家老、長岡図書の屋敷内にあったためこの名で呼ばれました。 

監物櫓に続く石垣
向こうに見える橋は県道303号線、
下を走っているのは県道1号線です。

県道1号線を見下ろす。
左の石垣は熊本城三の丸
 監物櫓を見上げつつ、新堀門跡を通って坂を登り、熊本城二の丸に入ります。
新堀門跡から南側を見る
かつては正面に石垣があり、その脇に埋門がありました。
珍しくバイクが写ってます(笑)

埋め込まれている門跡
 二の丸から西出丸に入ります。
熊本城二の丸石垣
高さ5間、全長101間、
俗に百間石垣と呼ばれる立派な石垣です。

西出丸内部
向こうに見えるのは復元された未申櫓
 西出丸南側には細川家時代に奉行所が置かれたことから奉行丸とも呼ばれていました。
御客方御櫓跡

井樋方御櫓跡
井樋方ってことは水道局とかでしょうかね?
 現在は整備が進められていまして、出丸の石垣が積み直され、南・西大手門、戌亥櫓、未申櫓、元太鼓櫓が復元されています。
井樋方御櫓跡から見る
飯田丸五階櫓(復元)

西出丸から見上げる熊本城天守
 他にも櫓跡が表示されていて、往事を偲ぶよすがとなっています。
西出丸(奉行丸)から北側を見る。
右側に西大手門(復元)の屋根、
左に見える平屋の櫓は元太鼓櫓(復元)です。

宇土櫓
 西出丸を北に歩いて行くと宇土櫓の前に出ます。
 よそでは立派に天守級の宇土櫓。ほれぼれとする威風です。

宇土櫓

宇土櫓と続櫓
 しかし今回の熊本・大分地震で続櫓は崩壊したとか。
宇土櫓と小天守

宇土櫓、小天守、大天守
 宇土櫓や大天守にも被害があったとかで、この写真のように威容を取り戻すまで、どれくらいの年月がかかるのでしょうか・・・・
 なるべく早く復活してほしいものです。

北大手門跡

西出丸西北隅にある戌亥櫓(復元)
 さて西出丸の北面を堀に沿って歩いて行きます。
 出丸の西北隅には戌亥櫓(復元)があります。
 細川時代に城の正面が西側になり、西側からの攻撃に対して西出丸が相対します。
 西出丸では先ほど紹介した未申櫓元太鼓櫓、この戌亥櫓が防衛拠点となって敵に立ちはだかる訳です。

北側から見ると結構スリムです。

戌亥櫓と宇土櫓、大天守
 西出丸はかなり巨大で単純な構造になってまして、天守付近の構造の複雑さとは対照的です。

埋門解説板
 出発点近くまで戻ってきました。
 先ほどご案内した埋門跡です。

埋門(復元)
現在は冠木門形式ですが、
かつては櫓門だったそうです。

解説板
 埋門跡から続く百間石垣です。
 長さが百間(180m)ある石垣で、加藤家の重臣飯田角兵衛が築いたといわれています。
 飯田角兵衛は山城国山崎出身で、若くから加藤清正に仕えて功あり、加藤家三傑の一人です。

美しく長大な石垣

コケがまた美しい
 槍に優れ、朝鮮出兵にも活躍しました。
 また土木工事も得意であったようで、この百間石垣の他に飯田丸にその名を残しています。
 加藤家改易の後は京都で隠棲したそうです。

結構長いですよ

巨大な門跡
二の丸御門跡です。
 かつて熊本城内を街道が走っており、参勤交代の行列がこの門を通っていったそうです。
 ていうかその参勤交代って薩摩藩じゃないのかな?
 さぞや威圧されたことでしょうねえ・・・・(苦笑)

通行人と比べてもかなり巨大な門であったことがわかります。

礎石
 ここの石垣も地震で崩壊しているようです。
 うーん・・・

ほんとに大きな門です。

細川刑部邸正面
 二の丸御門跡から西にしばらく歩くと細川刑部屋敷跡があります。
 細川刑部家は、細川忠興の息子である興孝から始まる家柄で、代々熊本藩細川家の家老を務めました。

玄関
立派な式台です。

細川家の紋
九曜紋です
 そのお屋敷が保存されているということで、見学して参りました。
式台の横には玄関が

日本の家って光の取り入れ方が幻想的ですよね〜
 こちらのお屋敷はもともと熊本市東子飼町にあったそうですが、平成5年にこちらに移築保存されたそうです。
 細川刑部家(江戸時代は長岡氏を名乗っていた)は、細川内膳家と並ぶ一門家臣家でした。

書院
 表御書院です。
 対面の場でした。書院には細川家の直臣は入れましたが、陪臣(家来の家来)は、書院外の入側から用件を伝える決まりだったそうです。
 

この細工もなかなかです。

春松閣
 こちらは春松閣。
 当主の私室で、親しい人とはここでも対面したそうです。
 壁に銀箔が貼られていたことから銀の間とも呼ばれていたそうです。

屋敷の長塀
こっちは台風で70m倒壊したそうで・・・

森本儀太夫預かり櫓跡
 お城のある茶臼山丘陵の端までやってきました。
 ここには加藤家時代に森本儀太夫預かり櫓がありました。
 森本義太夫は先ほどの飯田角兵衛と並んで加藤家三傑といわれた人物です。

櫓の北側は切崖になっています。

森本儀太夫預かり櫓の下から新堀御門跡を見る。
赤い矢印が監物櫓下の橋
 森本儀太夫も朝鮮出兵で功を挙げ、また土木技術にも秀で、熊本城などの築城に力を発揮しました。
 子孫は加藤家改易後は細川家に仕えました。

熊本城が台地上に築かれていることが
よくわかります。
(森本儀太夫預かり櫓跡を見上げる)

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2016.11.20作成
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