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![]() 本日の朝食 |
佐世保で三日目の朝を迎えました。 ホテルの無料朝食で長崎皿うどんいただきました~ |
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![]() 国道202号線 |
佐世保を出発して国道35号線を東へ。 途中で国道202号線を北上します。 この日は相方さんたっての希望で呼子の朝市見学に向かいます。 |
![]() お茶畑 |
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![]() 国道を離れて県道を走ります。 |
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![]() 呼子 |
ようやく呼子に到着しました。 何年前だったかに訪れたときはもっとお客さんがすごかった記憶があったのですが、この日はその記憶とは遠くかけ離れた人出でした。 |
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![]() とりあえずイカ食わないと |
相方さんもちょっとがっかりしていましたが、せっかく来たのだからと楽しんでいくことにしました。 とりあえずイカを食べます。 |
![]() うまそうです |
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![]() が、旅行中ではなかなか買えない・・・ |
やっぱり呼子といえばイカでしょうからねえ。 ちょっと離れたところに地元の人がよく行く有名店もあったみたいですが、この時は知るよしもなかったです。 でも堪能はしました。 |
![]() イカバーガーはうまくなかった(笑) |
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![]() 海がきれいだ |
呼子を離れてもう一カ所近場の名所を訪ねます。 国道204号線を西に走ります。 |
![]() ここ浜野裏の棚田です。 |
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![]() いつ来てもいいところです |
この棚田はいつ来てもいい感じですよね。 一度夏の夕暮れ時に来てみたいと思うのですが、毎回同じような時期に来てしまいます。 |
![]() 毎回5月に来ているような気もします |
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![]() 大和大納言羽柴秀長の養子です。 |
国道204号線を東に引き返すと左のような看板をたくさん見かけます。 そう、このあたりは元禄・慶長の役で朝鮮半島に渡った諸大名の陣屋がたくさんおかれていました。 その陣屋の発掘調査が進めれているそうです。 |
![]() 堀秀治陣屋解説板 |
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![]() 堀秀治陣屋解説板 |
そのいくつかは見学できるようになっていました。 陣屋の一つである堀秀治の陣屋跡を見学していくことにしました。 堀秀治は「名人」と言われた堀久太郎秀政の長男です。 小田原の陣で功績があり、上杉家が会津に移されたあとの越後40万石を支配しました。 |
![]() 堀秀治陣屋跡 北西曲輪を下から見上げます。 石垣の基部が残っています。 |
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![]() 陣跡には各所にこんな解説板が整備されていて、 楽しく見学できますよ~ |
はじめ春日山城、次いで福島城(今の上越市直江津港の近くにあった)を居城としました。 | ![]() 北西曲輪から本曲輪を見上げる |
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![]() 本曲輪から北西曲輪を見る。 |
陣跡の北側に車数台を停めるスペースがあったので、そこに車を停めて歩き出します。 小高い丘に築かれているので、ちょっとした登りになります。 この日は天気もよくて歩くには少し暑いくらいの日でした。 北西曲輪から空堀を二つへだてたところに本曲輪(お城でいう本丸)があります。 |
![]() 空堀の跡 |
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本丸には紋を染め抜いた旗が立てられていたであろう、旗竿石が残されていました。 | ![]() ここに旗竿が立てられていました。 |
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![]() 建物跡が間取り再現されていました。 |
本曲輪には御殿や広間、能舞台らしい礎石が発掘されたそうで、間取りが復元されていました。 御殿では殿様が生活し、広間で評定が行われていたのでしょう。 |
![]() 本曲輪の復元図 |
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![]() 本曲輪の建物復元図 |
しかし戦地に向かう陣跡に能舞台がしつらえられているのはびっくりです。 軍旅のつれづれを慰めるのと、大名同士の接待に使われたのでしょうか? |
![]() 本曲輪大手 石段があります。 |
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![]() 大手口へと続く通路に飛び石がありました。 |
本曲輪の北側に大手口が設けられていたようで、警護の武士が詰めたであろう建物跡が発掘されているそうです。 大手口近くには井戸跡も残されていました。 陣跡には6カ所井戸があったそうです。 陣跡は臨時というだけで、お城のように石垣や土塁、空堀で守りを固めていました。 |
![]() ここが大手口になります。 |
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![]() 大手口前井戸跡 発掘後しばらくは水が湧いていたそうです。 |
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![]() 堀秀治陣跡 左が北になります。 (現地解説板より) |
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![]() 肥前名護屋城跡 |
さて、先ほど見たのは40万石の大名の陣跡。 これが太閤の陣跡になると、それはもうお城になります。 有名な肥前名護屋城は太閤豊臣秀吉の陣城でした。 秀吉は小田原の陣でも石垣山一夜城という陣城を築いて北条氏を圧倒しましたが、ここ肥前にも5重の天守を持つ名護屋城を築きました。 ものすごい財力ですよねえ。 |
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![]() 城割を受けている三の丸石垣 |
城の南西に構えられた大手口からお城見物に向かいます。 左に三の丸を見ながら大手道を東出丸に向かうルートになります。 三の丸の石垣の隅部分が三角形に崩されているのは人為的なものです。 |
![]() 名護屋城大手口 |
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![]() 大手口の櫓台 |
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![]() 大手道櫓台の石段 |
島原の乱で原城跡に立てこもった一揆勢の攻略に手を焼いた幕府は、廃城となった城に対して大規模は城割を実施しています。 その一環としてここ名護屋城の石垣もかなり破壊されているのです。 |
![]() 三の丸石垣 |
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![]() 大手道 向こうに見えるのは東出丸の石垣です。 |
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![]() 東出丸石垣 |
大手道を進んでいくと東出丸に到達します。 ここは三の丸大手門前に設けられた出丸です。 馬出の役目を果たしていたのでしょう。 四方を高さのある石塁で囲まれた空間になっています。 |
![]() 東出丸櫓台の石段 |
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![]() 東出丸内部 |
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長崎にいきましょう 続く | |||
2017.4.18作成 | |||
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