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![]() 新造船「いずみ」 |
2015年10月です。 この時、地域振興券かなんだかいうものが出まして、その地域の宿泊などに使える商品券が半額で販売されておりました。 さっそく島根県のものを購入して使ってみることにしました。 今回は泉大津港から阪九フェリーに乗船。 阪九フェリーの新造船「いずみ」に乗船します。 さすが就航してから1年未満の新船。設備も充実していて、しかもきれいです。 |
![]() フォワードサロンから |
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![]() ゆったり作られた二等寝台 |
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![]() 各ベットに貴重品入れが |
![]() 「やまと」と比べると、 パブリックスペースが広くなった感が |
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![]() コンセントも使いやすいです。 ドリンクホルダーもグー |
![]() エントランス |
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![]() 大阪湾の夕焼け |
お風呂には露天風呂までついていました。なかなかのもんです。 今回は二等寝台を利用しましたが、ゆったり設計されてまして、各ベットに貴重品入れもあって使いやすかったです。 |
![]() 吹き抜け空間が広々とした感じです。 |
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![]() 後部最上階 |
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![]() 明石海峡大橋を通過 |
瀬戸内航路のイベントといえば明石海峡大橋の通過。 まだ時間も早いので、結構な見物人がいます。 我々もその仲間ですが。 |
![]() いつ見てもきれいです。 |
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![]() 今回のチケット |
今回は相方さんも一緒なので車での乗船です。 今まで宮○カーフェリーに乗船したことなかったので、船内設備にうっとりしておりました。 |
![]() 今回乗ったのはこの船 |
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![]() この船も就航したときはびっくりしたのですが |
阪九フェリーは結構早いサイクルで新船を導入しているイメージがあります。 「やまと」「つくし」も就航間もなくの頃に乗船しましたが、設備の良さにびっくりした記憶があります。 「せっつ」「すおう」はお馴染みさんの印象。 2015年春に引退したようで、ちょっと寂しいですね。 |
![]() この辺がおなじみの顔ぶれですね(^^; |
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![]() このあたりも記憶にあります。 |
「ながと」「あかし」も乗船しているはずです。 「はりま」「せと」はどうかな・・・・ 以上、船内に展示されていた阪九フェリーのパネルのご紹介でした。 |
![]() 平成15年までか・・・ 乗ってないかも |
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![]() 新門司港の「いずみ」 |
泉大津〜新門司航路は出港が早いので、新門司到着は6:00。 新門司港を後にして高速道路にのって関門大橋を目指します。 |
![]() 九州道の夜明け |
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![]() が途中寄り道 |
めかりPAで一休み。 といってもまだほとんど移動してませんけど (^^; |
![]() めかりPAから |
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![]() 山口県に到着 |
関門大橋を渡って下関ICで下車。 関門海峡の下関側にやって来ました。 さすが交通の要所だけあってひっきりなしに船が行き交います。 |
![]() 馬関戦争時の砲台が復元されていました。 |
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![]() 義経八艘飛びのブロンズ像 |
交通の要所ということは戦場にもなりやすいってことで、幕末に長州藩VS欧米が戦った馬関戦争や、平家と源氏が戦った壇ノ浦合戦の舞台になりました。 | ![]() 船がひっきりなしに行き交います |
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![]() 住宅地の路地に石垣が |
交通の要所(くどい?)ってことはお城もあります。 櫛崎城というお城がありました。 山口に本拠を置いた大内氏の家臣、内藤隆春が築城したようです。 関ヶ原後、山口から移ってきた毛利秀元が居城とし、長府藩が成立しました。 石高は6万石です。 |
![]() 石碑がありました。 |
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![]() 民家の塀に半分埋もれた井戸 |
![]() 下関市のマンホール |
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![]() けっこうシュールな感じ |
しかし元和の一国一城令の際に櫛崎城は破却。 城跡の隣接地に館を築いて居城としました。 長府藩主毛利秀元は毛利本家と折り合いが悪く、いろいろと揉めております。 長州藩5代藩主毛利吉元が長府藩出身で、そこからは仲良くなったようですが。 |
![]() 石垣の上に民家 ここは松崎口で、 民家の部分には城門を見下ろす 二重櫓がありました。 |
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![]() 櫛崎城絵図 |
陸地と砂州でつながった陸繋島に築かれた櫛崎城。 海峡をにらむお城らしく、城絵図には船入らしい描写や、「御船手御小屋」などの記載があります。 伊豆下田城のように港を囲むように尾根上に石垣が築かれている感じですね。 島原にある原城にも縄張りがよく似ていますね。 |
![]() 石垣 |
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![]() 櫛崎城鳥瞰図 現地の案内板から |
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![]() 復元天守台 |
藩主居館は陸繋島の砂州部分(今の豊浦高校あたり)に置かれたようです。 しかし馬関戦争で艦砲射撃の脅威を知った長府藩は、居館を内陸部の勝山に移転させます。 復元天守台の上では鳩とカラスがたむろっていましたが、相方さんに追いかけ回されて逃げていってしまいました(^^; |
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![]() 勝山御殿入り口 |
というわけで、同じ下関市内にある勝山御殿にやって来ました。 | ![]() 中段への石段と石垣 |
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![]() 勝山御殿中段現況 |
先ほども書きましたが、異国船による艦砲射撃を避けるため、この地が選ばれて御殿が築かれ、藩邸が映されることになりました。 | ![]() 勝山御殿最上段現況 |
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![]() 西門跡 |
わずか半年あまりの突貫工事で御殿は完成。 藩の政庁が移転してきました。 明治維新後も豊浦県庁として使用されましたが、豊浦県は山口県と統合したので不要となり、建物などは撤去されました。 現在は石垣のみが残されています。 |
![]() 勝山御殿の建物 |
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![]() 三の丸石垣 |
縄張りは梯郭式で、上段(本丸)中段(二の丸)下段(三の丸)と階段状に築かれています。 縄張りはシンプルですがその石垣は見事で、かなりの高さを持って築かれています。 一見の価値ありです。 |
![]() 石垣もなかなかのものです |
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![]() 勝山御殿縄張り図 |
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山陰お大尽旅行(当社比) 続く | |||
2017.5.30作成 | |||
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