寛政12年(1800年)建立の道しるべ
 健康診断で高脂血症と宣告された私。
 めんどくさいといいながら、健康のために近所をぶらぶらと散歩しておりました。
 しかしまあ建売住宅が並ぶ住宅街というのは、散歩してても楽しくない
すぐ飽きる
 どうせなら楽しく歩きたい!
と言うわけで、街道を歩く旅に出ることにしました。
 いろいろ見てまして、一番身近にあるのが大和街道(松阪街道)。
 和歌山市の京橋を出て、五條・高見峠を経由して松阪へとつながる街道です。
  かつての松阪は紀州藩領だったこともあり、江戸時代初期には参勤交代ルートとなっていました。
 領民にお殿様の威光を見せつけようって訳ですね。
 大和国(奈良県)に鷲賀・越部・土田村と紀州藩領の飛び地があるのは、参勤交代ルート上にあるからだそうです。

江戸時代に崇敬厚かった
根来寺と粉河寺への距離が書かれています。
 大和街道の起点である京橋から八軒家というところまで歩く計画を立てました。
 しかし調べてみると、八軒家から和歌山市内に戻ってくるバスの本数がめちゃくちゃ少ない!
 ゴールしたはいいが、帰って来れないことに気がつきまして、先に八軒家までバスで行って京橋まで戻ってくることにしました。
 八軒家は和歌山市内から約8キロほどのところ。大和街道の宿場で、八軒の旅籠があったことに由来する地名です。
 紀ノ川の渡河点、田井ノ瀬の渡しを控えていました。
 刑場もあって、罪人はこのあたりで切られていたようです・・・・

農家の長屋門が残っています。
 今では古い建物はあまり残っていませんが、街道の空気が残っているのが不思議です。
 和歌山バイパスの高架をくぐって和歌山市街を目指すと、またも道しるべがあります。
 

左 紀三井寺 熊野道
右 加太

こちらが八軒家街道
 ここで八軒家街道と呼ばれる、和歌山城下をバイパスして紀三井寺方面へと向かう街道が分岐していたようです。
 八軒家街道は室町時代は今の和歌山市街への街道だったようで、水攻めで有名な太田城下へと続いています。

こちらが大和街道です。

阪和道の高架をくぐります
 阪和道をくぐったところで早くも街道を外れます。(^^;
 十五社神社は、昔は少し離れた小字古宮というところにあった神社で、創建は室町時代なんだそうです。
 古宮には紀ノ川から宮川(用水)に水を引き入れる水門があったそうなので、その鎮守として置かれたのでしょう。

十五社神社

十五社神社の灯籠
宝暦6年(1756年)
 十五社神社の隣には持松寺があります。
 ここの山門は非常に古い年代のものなのですが、年代不明なんだそうです。
 しかしなかなか立派な山門です。
 このあたりは松島村だったところですが、豊かな村だったのでしょう。

持松寺山門

山門軒下
 持松寺を後にしてどんどん歩きます。
持松寺本堂

塩野神社
 旧加納村までやって来ました。
 ここで塩野神社にお参りです。
 この神社の歴史は大変古く、平安時代にさかのぼります。

明治時代に奉納された絵馬

社殿
 元々は紀ノ川を挟んだ北側、和歌山市六十谷(むそた)にあったそうですが、長歴3年(1039年)7月15日(旧暦)の紀ノ川氾濫で社殿が流されまして、この地に流れ着いたそうです。
 以後この地で祀られてきました。
 現在の社殿は宝永3年(1706年)上棟だそうです。

由緒

江戸時代の堤防跡
 塩野神社だけでなく、和歌山市はたびたび紀ノ川の水害に見舞われてして、流路もたびたび変わっています。
 左の写真は江戸時代の堤防が生活道路になっているものです。
 周りより微妙に土地が高くなっています。

キャベツ畑の向こうが紀ノ川の旧河道なんだそうで

北側の塚
江戸時代から残っていますが、
松は昭和50年代に植え替えられたもの。
 JR阪和線をくぐったあたりで大和街道に戻ってきました。
 ここは四ヶ郷(しかごう)一里塚(国指定史跡)です。
 松島村・加納村・新在家村・有本村は明治に合併しまして、四ヶ郷村(4村が合併したことにちなむ)となりました。
 四ヶ郷は今でも地区名や小学校名にその名を残しています。

南側の塚

解説板
 四ヶ郷一里塚は和歌山市の京橋から一里(4キロ)地点に築かれたものです。
 参勤交代時はここまで殿様を送り迎えしたそうです。

四ヶ郷(しかごう)にあるシカゴピザ
テレビでも紹介されたネタ

徳勒津(ところつ)の宮碑
 大和街道を今度は南に外れて徳勒津宮跡にやって来ました。
 仲哀天皇が南海道視察の際に頓宮(宿泊所)としたところです。
 ここで仲哀天皇は熊襲反乱の知らせを受け取り、ここから船出して熊襲征伐へ向かったとされています。
 仲哀天皇のお后が有名な神功皇后です。
 今は民家に囲まれてぽつんと碑が残るだけですが、古代には紀ノ川がこのあたりを流れていたそうで、湊があったと考えられています。

紀伊中ノ島駅舎
昭和10年に建てられました。
 街道に戻らずにJR阪和線をくぐって紀伊中ノ島駅にやって来ました。
 和歌山に鉄道がやって来たのが明治33年(1900年)のこと。
 紀和鉄道が五条〜和歌山(現在は紀和駅)を開通させました。
 高田〜五条間の南和鉄道、高田〜王寺〜奈良間の大阪鉄道、奈良〜名古屋間の関西鉄道を経て東京と和歌山が結ばれたのです。
(紀和・南和・大阪鉄道は後に関西鉄道に合併されました)
 当時は紀ノ川沿いに線路が引かれ、和歌山市街の外れ中之島村に和歌山駅(現:紀和駅)が置かれたのです。
 後、天王寺〜阪和和歌山駅間に阪和電気鉄道が開通(昭和4年)。
 昭和10年に阪和電気鉄道と国鉄の乗り換えのため、この紀伊中ノ島駅が開業しました。
 その後阪和電気鉄道が戦時買収で国鉄阪和線となると、大阪への輸送が増大し、田井ノ瀬から東和歌山駅(現:和歌山駅)への連絡線が開通します。
 そうすると和歌山線から阪和線への乗り換えは和歌山駅で行われるようになり、和歌山線の田井ノ瀬〜紀和間と、和歌山線の紀伊中ノ島駅は昭和49年に廃止になりました。
 現在は無人駅で、改札を通った乗客は和歌山線ホームを通って阪和線のホームに向かいます。

典型的な駅前旅館です。

かつて和歌山線はまっすぐ延びていました。
高架がJR阪和線です。

今は使われなくなった和歌山線のホーム

お地蔵さん
 こちらは和歌山では有名なお地蔵さん。
 地蔵の辻という地名が残るほど有名なのです。
 元々お地蔵さんがあった場所は、大和街道と直川観音参詣道の交差点にあたり、交通の要衝でした。
 

手水

解説板
 江戸時代に発行された紀伊国名所図会には、旅人が行き交い茶店がでているのが描かれています。
 道路拡張でお地蔵さんが移転させられているのですが、できれば元の場所に戻してほしいものです。
 このあたりは紀和駅(旧:和歌山駅)に近く、かつては昭和の街並みが残っていましたが、すっかり寂れてしまいましたね。

昭和を感じる建物

お昼御飯
 地蔵の辻から本町御門までは嘉家作丁と呼ばれ、堤防に架けて建てられた町屋が並んでいました。
 ここの桜は時期はずれに咲くので割と有名ですよ〜
 嘉家作途中のカレー屋さんでお昼御飯です。

嘉家作の桜

用水
戦前のものでしょう
 私が子供の頃はまだまだたくさんあった町屋も、残り少なくなってきました。
かつてはこのような町屋が並んでました。

大事に住まわれてますね
 この風景もあと何年持つかな?
 

かなり寂しくなってきました。

郵便番号が3桁の頃の町名表示板
スポンサーの百貨店も今はありません。
 嘉家作丁から国道26号線バイパスをくぐると本町御門跡がありまして、かつての城下町正門でした。
 そこを通って左に折れると本町通り。
 城下町和歌山のメインストリートです。

弥助寿司
なれ寿司が有名なお店です。
小さい頃は臭いと思ってましたが
今ではうまいのが不思議です。
祖母の大好物でした。
                                                                                                                                                               京橋に到着しました。
 ここが和歌山城三の丸大手門跡になります。
 京へ向かう街道の起点になったことから、堀川に架かった橋を京橋、門を京橋御門と呼びました。
 立派な櫓門だったようですが、跡形もありません。
 紀州藩の大名行列はここから江戸を目指したのです。
 と言うわけで今日のお散歩は終了です。
大和街道をゆく 続く
2017.6.26作成
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