毎度おなじみ常夜灯
 さて、五月のゴールデンウィークに突入しました。
 今回は粉河から歩きます。
 スーパーから歩き出して川を渡り、粉河郵便局の裏手を歩いて行きます。

民家
玄関脇に庭への小さな戸がある様式です。

常夜灯
右 かうや(高野)みち
左 いせ まきのと屋
宿が広告を兼ねて建てたようです。
 和歌山線を越えて北側を歩きます。
和歌山線
明治33年開通の古い路線です。

お地蔵さんと
歴史街道の道標
 やがて川が見えます。
 この向こうが名手宿になります。
 紀州藩が参勤交代のために整備した宿場町です。

川には鯉のぼり

名手宿の建物
煙出しがあります。
 和歌山城下を出発した参勤の行列はここで足を止めたそうです。
旧 名手郵便局
昭和初期の建物でしょうか

名手本陣の建物
 和歌山からおよそ8里(32キロ)ほぼ一日の行程だったのでしょう。
街道らしいうねった道

名手宿の民家
 以前にも紹介した名手本陣は、1630年より地頭を務めた妹背家の屋敷。
 妹背家は華岡青洲(世界で初めて全身麻酔による乳癌手術を成功させた人)の奥さんの実家でした。

名手宿外れにある橋
 この近くには青洲の里もあります。
 一見の価値はあると思います。

大正13年に架橋されました。

 穴伏という場所の外れに来ました。
 このあたりで紀の川市はおしまい。
 かつらぎ町に入ります。

昭和8年架橋

現在はもう一つ新しい橋が架かっています。
 かつての国道24号線を橋を渡ってかつらぎ町に入ります。
JR和歌山線の電車が通過しました。

ちょっと休憩の一コマ
 川を渡ると万葉集にも歌われた背の山があり、その中腹を歩いて行きます。
 途中で才蔵堀跡の立派な碑がありました。
 大畑才蔵は紀伊国禿(現在の橋本市学文路)の生まれ。
 紀伊藩主徳川吉宗の命を受け、宝永4年(1707年)から小田井用水の工事に着手。
 第1期工事は21キロの工事を宝永大地震の中断を挟んで1年半で開通させています。
 こうして紀ノ川筋の河岸段丘が穀倉地帯に生まれ変わり、川上酒など多くの産業を生みました。
 これはその記念碑なんだそうです。

才蔵堀跡

明治期の橋台
煉瓦を積み、角を石材で固めています。
 近代にはいって五條〜和歌山間の鉄道が背の山の麓に開通しました。
 

竣工は明治33年11月です

道の駅でちと休憩
 背の山を越えたところで街道は一部失われています。
 道の駅で小休止したあと、笠田(かせだ)に向かって歩き出します。
 かつらぎ町笠田(かせだ)は古くから笠田の庄として栄えた荘園で、文書への初見は長寛2年(1164年)、讃岐院・神護寺領でした。

笠田にある廃業した蔵元
草田酒造場

一字一石塔
 笠田集落の中を歩いて抜けていきます。
 街道沿いには郵便局があることが多いのですが、かつらぎ笠田郵便局がありました。

大和街道と大楠

十五社の樟

小さな神社

笠田
 日が高くなってきて、暑くなってきました。
笠田

珍しいイラストの看板
 かつらぎ町のゴミ捨て禁止の看板です。
 他の市町村にはない、気難しそうなおじさんが描かれていて面白かったので写真を撮ってみました。

丁ノ町青年会建設とあります
 かつらぎ大谷郵便局を過ぎると道が広くなり、かつらぎ町役場の前で国道24号線と交差して国道の南側を併走する形になります。
 妙寺の駅に近いところにコンクリート製の碑がありました。
 丁ノ町(妙寺駅北側一帯)青年会建設とあります。
 かつては帯庄酒造始め商業が盛んだったと聞いている地区の青年会が、何を記念して建てたのでしょうか?

コンクリート製で大正13年に建てられたものです。

妙寺駅
 妙寺駅に到着しました。
 1時間に1本になった和歌山行きの電車を待ちます。
 自動販売機で買ったジュースをあっという間に飲み干しました。
 電車が来たので車を停めた粉河駅まで戻ります。

電車が来ました
 途中休憩した道の駅でお土産を買いました。
 やっぱりかつらぎ町は柿が有名なようです。
大和街道をゆく 続く
2017.8.19作成
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