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![]() 山中宿解説板 |
2016年12月のクリスマスイブ。 おそらく大阪市内に出かけるのであろう着飾った乗客を乗せた電車から、山中渓駅で下車しましました。 他に降りる人はいませんでした(笑) 今回は山中渓から紀州街道を大坂を目指して歩いて行きます。 まだ肌寒い中、相方さんと二人で歩きだしました。 |
![]() 山中宿北側入り口 |
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![]() 道祖神 |
山中宿は本陣一つと旅籠20数軒を有した宿場町で、紀州藩の参勤交代などに利用されました。 紀州藩主の通過時には、近隣から3000人に及ぶ人夫がかり出されたそうです。 紀州藩では毎年12月20日に悪疫の病人や犯罪者を境橋から国外追放する決まりがあったようで、山中宿では道祖神を祀り、はやく宿場を去ってくれるように祈ったそうです。 |
![]() 山中宿の風景 |
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![]() ここが本陣跡 |
山中川に沿った狭い谷にできた宿場町で、規模としては大きくありません。 | ![]() 古い家も残っています。 |
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![]() こちらも立派なお宅です。 |
しかし京都と紀伊国府を最短距離で結んだことから、かなり昔から街道としては成立していたようです。 | ![]() 煙出しに格子窓 |
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![]() 馬目王子跡 |
山中宿を通過してしばらく歩くと、道路の反対側に馬目王子跡の碑を見つけました。 しかしこの府道、抜け道で交通量が多いため、遠くから撮影しただけにしました。 | ![]() 阪南市のマンホール |
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![]() 紀州街道は山中川を越えます。 |
山中川を渡りました。 このあたりは阪南市自然田(じねんだ)というところで、かつては湿地だったんでしょうか? 大きな鳥居がありました。 |
![]() 大きな鳥居 左に少し写っているのが和泉鳥取駅 |
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![]() 泉南市のマンホール 梅? |
大きなため池の下を通るともう泉南市域に入ります。 ここから道はなだらかに下り、府道64号線を越えて金熊寺川に出ます。 |
![]() なだらかな下りです。 |
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![]() 阪和線と併走 |
このあたりはまだ田園風景が残っていました。 築堤の上を阪和線が走っています。 川を越えたところが信達岡中(しんだちおかなか)になります。 |
![]() 信達岡中集落 |
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小さい集落なのですが雰囲気があり、街道を歩いているなあ〜という気分になります。 | ![]() |
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![]() 道標 四国みちとあります。 |
大きな道標が現れました。 林昌寺への道標だったと記憶しています。 行基開基のお寺だそうで、奈良時代からの歴史があるそうです。 織田信長の紀州攻めで焼失しますが、江戸時代に復興されたようです。 |
![]() 文化11年(1814年)の建立 ナポレオンがエルバ島に流された年です。 |
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![]() 林昌寺詣道の道標 |
街道が阪和線の築堤をくぐったところに、もう一つ道標がありました。 こちらは大正時代に建てられたものです。 |
![]() 大正2年のものです。 |
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![]() 熊野街道の解説板 |
阪和線をくぐると左に大きなため池があります。 大きな河川のない和泉国ではため池がたくさん作られました。 道は府道64号線と合流します。 緩い上り坂を登って切り通しを過ぎると、信達牧野に入ります。 |
![]() 信達牧野(しんだちまきの)に入ります。 |
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![]() 泉州は繊維業が盛んです。 工場 |
泉州といえば繊維業が盛んです。 江戸時代は木綿栽培が盛んで、稲作と作付け面積が同じだったと言われています。 この流れをくんで繊維業が盛んとなりました。 今でも「泉州タオル」のブランドで生産されています。 |
![]() 街道を北上します。 |
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![]() 立派なお宅です。 |
府道63号線との交差点(大鳥居)を過ぎたあたりから雰囲気のある街並みになってきました。 | ![]() ほんときれいにしてはります |
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![]() 街道 |
それもそのはず、このあたりは信達宿(しんだちしゅく)と呼ばれる宿場町でした。 | ![]() このあたりの民家 |
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![]() 窓に仏像があるお宅多し |
その成立は古く、後鳥羽上皇の熊野詣でに随行した藤原定家が、行きと帰りに宿泊した記録があります。 |
![]() だいたいこういう建て方なんです。 |
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![]() むくり屋根の門 |
江戸時代に入って将軍綱吉の頃、紀州藩の参勤ルートが大坂周りとなり、信達宿はその世話に追われることとなります。 | ![]() 宿場町らしいですね |
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![]() 信達宿(しんだち)の案内板 |
紀州藩の行列は士分だけて1500人を越え、人夫も含めると4000人。加賀前田家をもしのぐ規模でした。 そのお世話たるや大変だったでしょう。 |
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![]() 文政13年(1830年)建立の常夜灯。 この頃おかげ参りが盛んだったそうで、 この頃に建てられた常夜灯が多いです。 |
紀州街道を進んだ紀州藩の行列は、京橋御門を出発後、先ほど通過した山中宿で昼休憩。 この信達宿で1泊したそうです。 |
![]() 常夜灯の解説板 |
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![]() 角谷家 |
左の写真は本陣を務めた角谷(つのや)家の屋敷です。 殿様は本陣に泊まりますが、家来たちはその格に応じた宿に分散して宿泊しました。 紀州藩10代藩主治宝公の時に作成された宿割帳が残されているそうですよ。 紀州といえば御三家。 将軍家一族な訳ですから、家来の末にいたるまで、その威光をかさにきての振る舞いが多く、周囲が難儀したお話が多く残っています。 |
![]() このあたりのお家はこのように 小さな玄関が多いです。 |
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紀州街道をゆく 続く | |||
2017.9.26作成 | |||
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