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![]() 北庄司牛乳処理場 |
信達宿を通過して一丘団地口の交差点を通過します。 と、街道沿いに牛乳屋さんを発見。 配達しているところじゃなく、牛乳を製造しているところのようです。 事務所の前に自動販売機がありました。 |
![]() 自動販売機 |
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![]() もちろん飲んでみますよ |
お腹の心配をする相方さん(この日は12月24日)を無視して一本飲んでみます。 パラチャイズ製法というのは低温殺菌による製法なんだそうで、65度で30分くらい殺菌するそうです。日持ちが3日くらいしかないのですが、本来の牛乳に近い味わいが楽しめるそうです。 市販の牛乳だと、130度で2秒とかですね。 |
![]() バスチャライズ製法 成分無調整 |
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![]() このふた開けるの懐かしいっす |
さっそく飲んでみました。 濃厚な味わいでうまかったです。また飲みたいですねえ。 調べてみたら北庄司牛乳処理場さんは大正12年創業なんだとか。 これからもがんばってほしいものです。 |
![]() 街道は続きます。 |
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![]() 泉州名物 水なすのお店 |
信達大苗代の郵便局を過ぎると、平地に向かって台地が舌状に突き出しているところがあります。 ここは海会寺があったところで、7世紀頃に建てられた古い寺院で、室町時代頃に失われたようです。 なんと国指定史跡です。 跡地前には古代史博物館があります。おそらく出土品が展示されているのでしょう。 |
![]() 一岡神社 海会寺跡地です。 |
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海会寺脇の坂道を下っていくと新家川に出ます。 ここには明治橋がありました。 廃品回収業者の横を歩くとすぐにもう一つの川を渡ります。ここが樫井川。渡ったところが泉佐野市。古戦場跡です。 |
![]() 樫井古戦場碑 |
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![]() 海会寺跡をみる 高台になっているのがわかります。 |
時は慶長20年(1615年)、大坂夏の陣にて大坂方は城を出て、徳川方を迎撃することになりました。 この頃の紀州藩主は徳川方の浅野長晟。紀州街道を北上してくるであろう浅野勢を迎え撃つため、大坂方は道案内役の淡輪重政(地元豪族。泉南郡岬町に淡輪の地名が残る)、塙団右衛門、岡部則綱、主将大野治房に3000の兵力で南下させます。 |
![]() 話の流れをぶった切って 泉佐野市のマンホール |
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![]() 淡輪重政の墓 |
浅野勢は5000の兵力で泉佐野まで進出しますが、大坂方の出兵を知って樫井まで後退し陣を張ります。紀州街道を南下する敵を海会寺跡の高台から迎撃する狙いがあったと思われます。 一方の大坂方は塙団右衛門と岡部則綱が先陣争いで本隊から突出。 本隊の大野治房が貝塚で地元のお寺で供応を受けている間に、合戦の火ぶたが切られます。 まず岡部勢が敗退し、敵中に孤立した塙勢は壊滅。塙団右衛門はここで戦死。道案内役の淡輪重政も戦死しました。 その頃、大野治房はまだ貝塚を出ていなかったそうです。 浅野勢は大坂方が紀州で一揆を煽動していたため、そのまま紀州へと引き上げたそうです。 |
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![]() こちらは塙団右衛門の墓 手入れが行き届いています。 |
淡輪重政、塙団右衛門の墓は手入れも行き届いておりまして、地元の方に大事にされているようです。 | ![]() 樫井付近の民家 |
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![]() 長南公民館近くのお地蔵さん 正平18年(1363年)建立だそうです。 安松八丁畷のお地蔵です。 |
長南公民館で一休みさせていただき、歩き続けます。 |
![]() 道標 右 水間寺 すぐ 大坂道 この「すぐ」というのは「まっすぐ」という 意味なんだそうです。 |
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![]() 街道沿いのお屋敷 |
府道64号線に沿って長滝西交差点を左斜めに入っていきます。 すでに時刻は12:30。お腹も空いてきました・・・ 空港連絡道の下をくぐってどんどん北上していきます。 |
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![]() 道標 すぐ 和歌山道 |
ようやく泉佐野市役所近くの佐野高校までやって来ました。 |
![]() こっち ふどうみち |
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![]() この手の矢印は明治時代の 流行なんだそうです。 |
このタイミングしかご飯食べるところがない!ってことで、国道を少し外れた中華料理店へ・・・ | ![]() 街道を北上 もうすぐ国道26号線をまたぎます。 |
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![]() 道標 右さのみち ふどうみち |
これが大失敗。 店内には店主らしい女性の写真がたくさん貼られていて、ちょっと微妙な空気だったのですが・・・ 麻婆は辛かったもののまずまずだったのですが、ご飯が最悪にまずい。お替わり無料だったのですが、そんな気持ちにはなれませんでした。 合掌 |
![]() 古い門 |
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![]() すっかり熊野古道を忘れてました(笑) 佐野王子です。 |
やるせない気持ちを抱えたまま北上します。 このあたりの紀州街道はほぼ府道64号線とかぶっていますが、大藪池のあたりで府道を外れて海を目指し始めます。 第3中学校を通って南海電鉄鶴原駅手前で踏切を越えます。 南海電鉄泉佐野駅海側には海運業で栄えた町(元町)があり、食野(めしの)家などの豪商が屋敷を構えていました。食野家は紀州藩にも多額の大名貸しをしていたようで、ザレ歌にも歌われています。 元町も見てみたかったですが、紀州街道が通っていませんでした。 |
![]() 戦死祈念碑 いつのでしょうか・・・? 日露っぽいんですけどね |
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![]() 貝塚市のマンホール |
鶴原駅を過ぎたところで府道204号線と合流。 川を渡って貝塚市に入ります。 |
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![]() 屋敷が大きくなってきたような気がします。 |
貝塚市は貝塚御坊願泉寺の寺内町として栄えた町です。 近代では日紡貝塚(ユニチカの前身)のバレーボールチームの本拠地だったことでも知られています。 泉州は繊維業が盛んだったことがうかがえます。 |
![]() 沢薬師堂 |
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![]() 街道がうねってます。 |
貝塚あたりで街道が高台からおりて低地へとうつります。 | ||
![]() さと子のお店 |
なんかいいお店を発見。 入ってみると甘納豆のお店だそうで、名物のお多福豆はすでに売り切れ。 お好み納豆を買ってきていただきました。 おいしくってお勧めです。 |
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![]() にゃんこがこちらをみている。 |
近木川を越えます。 だんだん日が傾いてきました。 |
![]() 道標 |
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![]() 国道第29号線とあります。 明治時代のものですね。 |
道標がありました。 明治時代のものです。 表記が国道29号線とありますが、これが明治15年の國道表によるものです。 現在の国道26号線にあたる路線です。 |
![]() 左 粉川道 |
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![]() 岩橋善兵衛生誕の地 天体望遠鏡をつくった方のようです。 |
貝塚市街に入ります。 府道204号線と併走していましたが、ここで合流です。 |
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![]() 洋館風の建物 |
大阪市内が近づいてきたせいか、建物がだんだん立派になってきたような気がします。 | ![]() 古い商家がそこかしこにあります。 |
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![]() 怪しい狸発見! |
と、いきなり怪しい狸を見つけました。 疲れていたのでかなりツボにはまってしまいまして、爆笑してしまいました・・・ |
![]() なぜ目がこんなにも光っているのでしょうか |
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![]() 府道から一本脇道はごらんのとおりの風情です。 |
貝塚市街はなかなか風情のある佇まいでした。 ここで終わろうかと思ったのですが、次回のことを考えて特急停車駅の岸和田まで歩くことにしました。 |
![]() 狭い水路 |
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![]() 肥料やさんだったかな? |
堀のあたりで再び府道と併走。 川を渡る手前で、古い煉瓦造りの工場と、石碑を発見します。 |
![]() 古い煉瓦造りの工場。 (テラボウ) |
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![]() 忠臣 捕鳥部萬墓 への道標 |
聞いたこともない名前なので、調べてみました。 捕鳥部萬(ととりべのよろず)と読むそうで、捕鳥部(ととりべ)とは鳥を捕まえる職業・部署のことで、河内国の鳥取氏の一族出身ではないかとされています。 物部守屋(もののべのもりや)に仕えたそうで、用明天皇2年(587年)の丁未の乱(蘇我氏と物部氏の戦い)のとき、主君の守屋が討たれたあとも山中に逃げこんで戦い続けますが、やがて小刀で自害したそうです。 |
![]() 明治4年のもの |
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![]() 小さな橋 たぶん岸和田市との境 |
朝敵となった萬。死体は八つ裂きにされ、八つの国に晒されることになります。 この時、萬の飼っていた白犬が萬の頭をくわえると古い墓に納めて傍らに横たわり、やがて餓死したそうです。 やがて朝廷の知るところとなり、さすがに哀れに思ったようで、萬の一族に萬と白犬の墓を建てさせて弔わせたそうです。 世の中まだまだ知らないことは多いと思った次第。 |
![]() 蛸地蔵入り口 |
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![]() 蛸地蔵参道 |
岸和田市に入りました。 天性寺にお参りです。 天性寺は別名蛸地蔵と呼ばれています。 なぜこの名になったかですが、天正12年(1584年)紀州雑賀の一揆勢が中村一氏がこもる岸和田城に攻め寄せた際、蛸にのった法師と怒濤の蛸軍団が押し寄せ、一揆勢を追い払ったとの伝承があり、その法師が地蔵尊の化身だったということで、日本一大きい地蔵堂に祀ったそうです。 蛸断ちの願掛け絵馬がたくさんあるそうですが、大阪人にとってたこ焼きを断つのはちょっと難しいと思うのですが・・・(^^; |
![]() 山門 |
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![]() お寿司屋さんだったらしい商家 |
疲れもピークに達し、なんとかゴールしようとがんばる私を尻目に、雰囲気ある街並みに大興奮の相方さん。 写真を撮りまくってちっとも歩いてくれません・・・・ |
![]() 昔なつかしいホウロウ看板 浪花正宗は阪南市の酒蔵 |
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![]() 岸和田市のマンホール |
岸和田城下に入りました。本町は紀州街道沿いの街で、岸和田城下では一番の繁華街だったことでしょう。 | ![]() 本町一里塚跡 |
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![]() 光明寺だったかな? 立派なお寺さんです。 |
いまもたくさんの商家が連なる佇まいを見せています。 岸和田藩ははじめ豊臣秀吉子飼いの小出秀政が藩主でしたが、三代吉英のとき但馬出石に転封となりました。 |
![]() 岸和田市街の紀州街道 なかなか見応えのある風景 (相方さん撮影) |
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![]() 一本向こうの道路には岸和田城が |
その後は松井松平家の松平康重が丹波篠山から移ります。 松平家は次の康映のとき播磨山崎へと転封になり、岡部宣勝が6万石で入り、以後明治維新まで岡部家が続きました。 |
![]() 岸和田市は空襲に遭わなかったのかな? |
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![]() 岸和田市役所別館角 |
この時けっこう疲れがピークを迎えておりまして、あまり写真を撮っていません。 元気な相方さんが撮影を続けておりました。 |
![]() 府道39号線との交差点にある欄干 ここは岸和田城のお堀でした。 |
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![]() 紀州街道 |
私は必死に岸和田駅を目指します。 | ![]() 岸和田貯蓄銀行の建物 昭和10年のもの |
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![]() 現在は事務所 |
ようやく駅前通りに到達。 ここで右折して岸和田駅を目指します。 |
![]() 正面のアーチが美しいです。 |
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![]() 招き虎 阪神ファン? |
沿道に面白そうなお店がたくさんあり、相方さんを誘惑します。 | ![]() ご存じだんじり用品のお店 |
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![]() 駅前商店街アーケード 20年前はすごい人出だった記憶があります。 |
私はもう玄界灘を越えております。 そういえば岸和田は世界的デザイナーコシノ三姉妹を産んだ街でしたね。 朝ドラにもなりました。 |
![]() コシノ洋裁店 |
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![]() 岸和田駅前の洋館 |
ようやく岸和田駅に到着。 初めて一日通しで歩いた日となりました。 結局この日は26キロ歩きました。 帰りにケーキを買って食べました。なんといってもクリスマスイブですからね(^^; |
![]() 今宵はクリスマスイブ・・・ |
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紀州街道をゆく 続く | |||
2017.10.1作成 | |||
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