南海電鉄岸和田駅屋上からの風景
 さて、年も改まった2017年元旦
 昨年のお正月はおせち食べて酒飲んで、お気楽に過ごしてしまったのであっさりと太ってしまいました。
 その反省を生かし、正月二日から街道の旅に出ることにしました。
 南海電鉄岸和田駅までマイカーで出かけまして、駅屋上にあるパーキングに駐車。
 岸和田駅から街道の旅を再開することにしました。

西田クリニック
 駅前に洋風の建物がありまして、これが西田クリニックの建物。
 大正5年に建てられた木造の洋館です。
 岸和田のかつての繁栄の証しですねえ。

解説板

旧交野無尽岸和田支店の建物
昭和初期に大林組が建設を担当したそうです。
交野無尽は昭和17年に他の4つの無尽と合併。
近畿無尽となり、近畿大阪銀行の前身となりました。
 正月二日の朝早く。まだ人通りもまばらな駅前アーケードを抜けます。
お城っぽい建物

泉州の和菓子「村雨」のお店

これも古そう
 朝ドラのロケ地などを寄り道しつつ、紀州街道までやって来ました。
岸和田市のマンホール

朝ドラ?のロケ地だそうです。
 紀州街道を歩くと酒蔵を発見。 今も酒造りをしているそうです。

こんな町屋がたくさん残っています。
 このあたりは大阪市も近く、町屋なんかも立派でたくさん残っています。
小さな橋

街道らしいクランクが残ります。
 クランクを抜けて岸和田城下を離れます。
工場の壁だったかな?
煉瓦壁の遺構

昭和30年代くらいの看板?
 ひんやりと寒い街道をひたすら北上します。
うだつのある、銅板貼りの町屋

正月の紀州街道
 春木川を渡って最初のコンビニで小休憩。
 ホットコーヒーがしみますねえ・・・

昭和の香りがしますね

立派な長屋門のお屋敷

西福寺
 八幡山公園の西側を通過して北上していきます。
これもなかなかのお屋敷

立派です。
 府道40号を横切ってしばらく歩くと忠岡小学校があり、ここから忠岡町です。
 元広島カープのマエケンこと前田健太はここの出身だとか。

こちらもなかなか

会社の事務所だったぽい建物
 忠岡町は面積が4平方キロメートル弱の日本一小さな町。
 紀州街道も1キロちょいで忠岡町を通過してしまいました。

泉大津市に入りました。
泉大津市のマンホール
機織りがテーマです。

これも古そうな町屋です。
 大津川を渡って泉大津市内に入ると、町屋がさらに立派に大きくなりました。
 泉大津には和泉国の湊がありました。
 昔は大津と呼ばれていたようですが、滋賀県の大津市と区別するために泉大津市となりました。

大きなうだつと、鏝絵が踊ります。
 泉州は木綿栽培が盛んで繊維業が発達。
 泉大津ではさらに発展して毛織物産業が盛んになり、毛布のまちとして知られるようになりました。

毛織物産業の証し
羊のマンホール

紀州街道が商店街になっていました。
 南海電鉄泉大津駅が近づくと紀州街道はアーケード街になりました。
 ただ、ご多分にもれずにシャッター街化しているようです。
 なんか人通りが多くなってきたなあと思ったら、地元の大津神社への初詣客でした。
 相方さんと二人でお参りしてきました。
 ついでに泉大津郵便局に年賀状出してきました。(^^;

銅板貼りの家

田中家屋敷
 南海電鉄北助松駅近くに田中家屋敷があります。
 田中家はこのあたりの大庄屋を務め、紀州徳川家の小休止本陣も務めてまして、助松本陣とも呼ばれました。
 母屋は17世紀後半、玄関は安政2年(1855年)のものだそうです。

表門は明治10年に焼失して再建されたもの

こちらはカラーのマンホール
 紀州徳川家の参勤の日程では、和歌山京橋を出て山中宿で昼食で信達宿泊まり、翌日はこの助松本陣で昼食し、大坂にある藩邸で宿泊となります。
懐かしい看板です。

中和泉街道の道標
大正年間のものです。
 助松本陣を過ぎたところに道標がありました。
 中和泉街道は別名「布引の道」と呼ばれた幅8尺(2m半)の大道で、和泉市にある聖神社への街道です。

道標のある場所

小高石橋の解説板
 中和泉街道への分岐を過ぎると王子川が流れています。
 ここに小高石橋という石橋が昭和37年まで架かっていたそうです。

小高石橋

立派な長屋門
 府道204号線をまたいで歩きます。
 大きな長屋門のお屋敷や、戦前から続いているらしい医院の前を通ります。

戦前かららしい医院

こちらも立派です。
 高石市はかつては高石浜(たかしのはま)と呼ばれていまして、砂浜と松林が続く風光明媚な場所でした。
 戦前は別荘地や高級住宅街で海水浴場などもありました。
 この時の海水浴客を運んだ名残が、阪和線鳳支線として残っています。
 対する南海電鉄は、浜寺駅の踏切をわざとゆっくりと電車に通過させ、阪和線利用客の嫌がらせをしたというエピソードを聞いたことがあります。

高師浜駅
 こちらが高師浜駅です。
 高級住宅街であったこのあたりの宅地開発のため、敷設されました。
 一説によると南海電鉄の社長宅がここにあったので、通勤のために敷設されたというのですが、さて本当なのでしょうか?(^^;
 駅舎や駅舎にあるステンドグラスにその名残をとどめています。
 風光明媚だった高石浜も今は埋め立てられて工業地帯となっています。

浜千鳥のステンドグラス

浜寺捕虜収容所跡
 ちなみに高師浜が高級住宅街になった理由は、風光明媚もさることながら、日露戦争寺のロシア兵捕虜収容所の跡地利用だったというのも面白い話です。
 高師浜駅近くには高石神社があります。
 西暦650年頃創建された古い神社で、かつては神社の裏が海で、紀州街道随一の景勝地だったそうです。
 神社の近くには筆やという旅籠があったそうで、伊能忠敬さんも泊まったそうですよ。

高石神社
初詣客で大賑わい

高石市のマンホール
 高石神社からは府道204号線を歩きます。
 大きな道路で、歩いていてもまったく楽しくありません。
 芦田川に伽羅橋という橋があったそうです。
 橋板が伽羅(香木)でできていたというのですが、本当ですかね・・・
 江戸時代に掛け替えられた石橋が、埋め立て地にある高砂公園で保存されているそうです。
 浜寺郵便局前を通過してしばらく歩くと堺市西区に入ります。
 ここには浜寺公園駅という路面電車の駅があります。

路面電車
阪堺電気鉄道
浜寺公園駅

堺市のマンホール
 浜寺公園駅を過ぎるとしばらくしてローソンがあり、南海本線の東側に渡る踏切があります。
 ここから南海本線に分断された紀州街道に戻ります。

現在の道標

小さな橋がありました。
 堺市に入ると紀州街道を示す石碑が現れてルート確認が楽になりました。
橋の欄干

北畠顕家公の墓
 住宅街の中を走る紀州街道を北上すると石津川に出ます。
 ここが有名な石津合戦場で、北畠顕家公の墓がありました。
 南北朝時代の西暦1338年6月10日、遠く奥州から長躯してきた北畠顕家が、高師直率いる北朝方とここ石津で激突し、若干20歳で戦死したのです。

石津川太陽橋たもとにある石碑

石津川
向こうに見えるのは阪堺電鉄
 石津川に架かる橋の名は太陽橋
 橋の上から遠く生駒の山々に昇る太陽が見えたことから、この名がついたそうです。

堺市のマンホール

石津太(いわつた)神社
 石津太神社前を通過しました。
 この神社のあたりはかつて浜辺でして、伊弉諾・伊弉冉神に流された蛭子命がこの地に漂着し、携えてきた五色の神石をこの地に置いたと伝わっています。
 五色の神石を置いた場所を「石津」と呼び、このあたりの地名となりました。
 

五色の石
この石の下に五色の石が埋められている
そうです。

広くなったり
 石津太神社を過ぎると道はうねうねと緩いカーブを描きます。
 下町ぽい雰囲気です。

狭くなったり

うだつの家
 街道をずんすん北上していくと、やがて併走していた阪堺電鉄と合流する地点にでます。
路地への抜け道があります。

うだつの家がほんとに多いです。
 ここが旧堺市街の入り口でして、かつて堺の町を守っていた環濠を見ることができます。
堺の環濠です。
歴史の授業で習いましたね。

与謝野晶子生家跡の解説板。
 阪堺電鉄と合流した紀州街道は、片側3車線の大きな道路になります。
 もちろん江戸時代はこんなに広い道だったわけではなく、拡張されたものです。
 その拡張で道路になった部分に、与謝野晶子の実家がありました。
 紀州街道沿いの裕福な商家(駿河屋という和菓子屋)生まれだそうですよ。
この駿河屋は大坂駿河屋で働いていた初代が、のれん分けで開いたお店だそうです。
 衆議院議員だった与謝野馨さんは晶子のお孫さんです。
 さて、日も傾いてきましたので今日はここまで。
南海電鉄堺駅までの21.5kmを歩きました。
 ほんと寒かったですね〜
電車で岸和田駅まで戻りました。帰りは結構な渋滞でとほほでございました。
紀州街道をゆく 続く
2017.10.24作成
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