京阪特急
 紀州街道の旅が終わってしまいました。
 さてどうしたものかと考えていましたが、大坂から江戸までの東海道57次(東海道53次+伏見宿・淀宿・枚方宿・守口宿)という話を知りました。
 相方さんは東京までなんか歩けないよ〜とか言っておりましたが、「とりあえず京都まで行って、それから考えよう」ってことになりまして、大坂から京を目指すことになりました(笑)
 せっかく大阪に行くし帰りは買い物でもってことで、高麗橋出発ではなくて枚方から高麗橋を目指すことにしました。
 朝6:00過ぎにお家を出発。
 北浜駅から京阪電車に乗車して枚方市駅を目指します。

こちらは一般車両
京阪のカラーはグリーンなのです。

こういうシュールさがひらぱーの魅力?
 枚方といえば関西のイメージは枚方パーク
 「ひらぱー」の愛称で知られる京阪電車経営の遊園地です。 USJ開園以来関西の遊園地が次々と消滅していく中、企画力で勝負しています。
 ポスターも映画とタイアップしたりなかなか楽しいのです。
 私が小さい頃は菊人形展が有名で、よくテレビでCM流れてました。

地元出身の某ジャニタレ

枚方市駅前
 枚方市駅北口を出まして京阪本線に沿って大阪向いて歩いて行くとすぐに辻があります。
宗左の辻
こちらは現在のもの

こちらは江戸時代の道標
左 京 6里 やわた(八幡)2里
右 くらじ滝 42丁
くらじ滝とは倉治公園にある源氏の滝なんだそうです。
 宗左の辻と呼ばれる辻、角に製油業を営んだ角野宗左の屋敷があったので、この名前がついたそうです。
文政9年のものです。
 府道20号線を渡るとイオンがあり、京街道(東海道)が取り込まれています。

イオン前の様子
 枚方宿東海道57次の宿場町として整備されました。
 全長1.5kmの宿場には本陣、脇本陣を備えました。
 紀州藩は6代藩主宗直の時代から参勤交代に東海道を使うことが多くなり、ここ枚方宿を常宿としていたそうです。

枚方宿の案内図

イオンより西側の枚方宿の様子
 枚方は淀川水運の湊としても重要な宿場で、大いに賑わったそうです。
 

和菓子屋さんに寄ってしまいました。
キンカンどら焼きうまかったです。

リフォームされたらしい町屋
 枚方の湊を行き交う30石船に漕ぎ寄せ、
「くらわんか」(食べないのか?、食わんのけ?)と乱暴に声かけ販売していたのが「くらわんか舟」
 不作法御免の特権があり、高貴な方相手にも乱暴に声かけしていたそうで、東海道中膝栗毛にも描かれた名物でした。

枚方市のマンホール
ひらかたパークの菊人形の菊と
「くらわんか舟」の意匠です。

妙見宮常夜灯
嘉永7年(1854年)のもの
 くらわんか舟は小説にも描かれていて太平洋戦争直後までは淀川水運とともに活動していたようです。
これまた立派な商家です。

三矢公園
(本陣跡)

古そうな看板ですね
 枚方宿内を西に向かって歩きます。
このゆるやかなカーブがいかにも街道

すぐ 國道二号路線京
左 枚方街道
明治の道標ですね。
 かなり空き地などが増えてきていますが、まだまだ宿場の雰囲気を伝えています。
町屋

ちょっと段を上るところが
川沿いの町らしいですね。

浄念寺
 浄念寺のところで宿場らしいクランクがあります。
 街道の一本北側にかつての枚方浜があったようです。
 現在は淀川改修と堤防があって川は見えません。

枚方浜(湊)跡
今は堤防で川に出られません。

小南喜衛門家
明治の建物なんだそうですが、
枚方宿最大の建物。

ふむふむ街道らしくていい感じ
 枚方宿の西見附(西入口)近くに鍵屋があります。
 平成9年まで営業していた料理旅館です。

鍵屋

鍵の鏝絵がすてきです
 創業は天正の頃ということですが、記録への初出は安永2年(1773年)だそうです。
 湊に近く舟待ち宿として営業していたようです。
 現在は枚方市が管理していて、博物館などになっています。
 開館前で中を見学できなかったのが残念です。

店の間かな

堤防上を走る街道が周りより高いのです。
 鍵屋のあたりは堤町といいまして、堤防の上にできた町です。
 左の写真のように街道がまわりより高くなっているのがわかります。

昭和50年頃の堤町
生まれてくるのが遅かったな・・・

いよいよ枚方宿もおしまいです。

淀川
 ここで痛恨のルートミス。
 街道を見失いまして、淀川の堤防上にでてしまいました。
 日差しは暖かいですが2月の風が吹き抜ける堤防上を歩きます。
 茨田堤(まむたのつつみ)の碑を見つけました。
 仁徳天皇が淀川に築かせた堤防だそうです。

茨田堤の碑
 堤防の上ではタンポポやオオイヌノフグリが咲いていました。
 春は近いですねえ。

古そうな農家
 暖かい日差しを浴びながら堤防の上をてくてく歩きます。
 ジョギングやワーキングの方多数です。

やはり水害が多かったのか
一段高く蔵が築かれてますね

文禄堤解説板
慶長元年(1596年)完成
河内に淀川が氾濫するのを防ぐために築かれました。
 ようやく守口に到着しました。
 守口は東海道57次最後の宿場町です。
 守口宿は豊臣秀吉が築かせた文禄堤という堤防上に発達した宿場町でした。

文禄堤解説板

商家がちらほら
 守口宿は本陣1、旅籠が27軒ありました。
 

堤防上の街道からは階段で下る道になります。

現在の守口宿
 大坂へ8キロ、枚方へ12キロという近さに加え、川舟との連絡がなかったために経営が苦しかった時期もあったそうですが、奈良へ向かう清滝街道の分岐点だったため繁栄したそうです。
 名物は守口漬だったそうです。

清滝街道の分岐点
右 なら のざき みち
 清滝街道の分岐点を見つけました。
 堤防上から下っていく石段が清滝街道なんだそうです。
 四條畷にある清滝峠を越えて奈良へと続く道です。

この石段が清滝街道です。

商家
 最近、枚方、守口とも東海道57次押しのようでした。
商家

高札場が復元されていました。
 高札馬が復元されたり、守口宿ののぼりが立てられたりしていました。
 守口には大塩平八郎が匿われていた屋敷が最近まで残っていたのですが、マクドナルドになってました。無念。

守口市駅に向かう道路で
寸断された文禄堤
架かっている橋が京街道
現在でもかなりの高さがあるのがわかります。

右に大きくカーブして堤防から降りていきます。
 守口市駅の高架を横目に見ながら守口宿を通過し、堤防上から降りていきます。
 今回はとにかくルートをよく見失ってますね。トホホ
東海道をゆく 続く
2017.10.29作成
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