「ひらかたはし」
橋の欄干のようです。
 ひな祭りの翌日、再び街道の旅に出かけました。
 この日は枚方からのスタートです。
 前回ご紹介した宗左の辻から歩き出しました。
 歩き始めてすぐに鉄枠で補強された石碑を発見。

解説板

現況
川が暗きょになり、
欄干だけが残されたようです。
 かつて宿場内を流れていた川に架かっていた橋の欄干でした。
今回は枚方市駅を出発して
枚方宿の東半分を歩きます。

町屋
 所々に町屋はありますが、このあたりも空き地が目立ち始めてます。
「ばったん床几」
京近くの町屋に多く見られます。
使わないときは折りたためる床几です。

東見附あと
 川の堤防にぶつかりました。
 ここが枚方宿の東入口、いわゆる見附の跡です。
 現在は堤防に阻まれているので、少し下流にある鵲橋(かささぎはし)を渡ります。

梅が見頃でした。

常夜灯
 三月とは言ってもまだまだ寒いなかを歩きます。
 府道13号線に合流して歩き続けます。
 右手に京阪本線を見ながら歩き、御殿山駅を通過します。
御殿山とは惟喬親王の御殿があったことにちなむ駅名なんだそうです。
 三栗というところで府道を離れて京阪本線をまたいで南側にでます。
阪今池公園の近くに常夜灯がありました。御神灯とあるので神社かな?と思ったのですが・・・本殿らしき建物はありませんでした。常夜灯の足下には道標が倒れていました。

道標が倒れていました。
八幡街道とあります。

享和元年(1801年)の灯籠
 しばらく歩くと穂谷川の堤防の上を歩いて京阪の牧野駅前に出ます。
牧野駅の手前に
左 前島街道 
と書かれた明治39年の道標を見つけました。
 前島街道とは、高槻の上宮天満宮前で西国街道から分岐して淀川を渡り、ここ牧野で京街道と合流する街道でした。
 牧野駅東側で踏み切りを渡って北側にでまして、線路沿いをてくてく歩きます。
船橋川でまたも街道が行き止まりになり、すこし下流にある樟葉橋を渡ります。
 このあたりの川は天井川なので、かつては水害が多かったのではないでしょうか。

左 前島街道
 船橋川を越えるといよいよ淀川の堤防上を歩くルートになります。

明治39年の道標

船橋川堤防下にあった
八幡宮の道標
橋本まで1里とあります。
 堤防上なので北風が吹き抜けていきまして、かなりの寒さです。
 樟葉駅のところで街道は堤防を降りて京阪の高架下をくぐり、府道を渡って町樟葉に入ります。

淀川堤防上を歩く
右が京阪本線
右奥が樟葉駅
画面中央左が天王山です。

樟葉駅から出発する京阪電車

樟葉駅北側(町樟葉)の風景
 町樟葉のあたりは古いお家はなく、なんとなく街道の名残をとどめているくらいでした。
 樟葉取水場あたりで再び淀川堤防上を歩きます。
 京阪本線の向こうに広場が見えますが、これが樟葉台場跡。
 幕末に築かれた京を守る台場です。
 京街道は京阪の橋本駅手前で府道を外れます。
 このあたりで大阪府を脱出。京都府八幡市に入ります。

今に残る妓楼建築

彫り物も立派なのです。

狭い道が続きます。
 八幡市橋本は江戸時代間の宿でした。
 男山八幡宮にも近く、京街道がとおり対岸の山崎への渡し場もあって、大いに繁栄したそうです。
 繁栄した理由はもう一つありまして、それは遊郭があったからなんだそうです。
 

こんな建物がごろごろあるのです。

建築好きならたまらない街でしょう
 橋本も浮き沈みの激しい町でして、鳥羽伏見の戦いでは樟葉台場西遊寺に幕府軍の陣地があったため、対岸の山崎から新政府軍の砲撃を受け、町も巻き込まれて壊滅しています。
鯉の彫り物

竹垣

明治の道標
 その後橋本は復興しましたが、明治10年、対岸に東海道本線が開通すると、街道の交通量が激減し、再び苦境に立たされます。
 そこで明治20年、京都府の認可を受けて遊郭を再興。再び繁栄を取り戻します。
 追い風になったのは明治43年の京阪電車の開通。

明治の道標
「山さき」への渡し場跡

酒屋に転業した建物
 昭和12年には86軒675名が在籍したそうで、最盛期を迎えたそうです。
 しかし昭和33年、売春防止法が施行され、繁栄も終わりを迎えたそうです。
 その後、温泉街として生き残りを図ったそうですがうまく行かず、昭和37年には山崎への渡し船も廃止となりました。

八幡市のマンホール

左 八まん
いせ 京 伏見
 タイムスリップしたかのような街並みが楽しい場所でした。
明和の道標

右 よく読めません
 橋本を過ぎて堤防の下をてくてく歩きます。
 八幡市駅の近くを通って堤防上に出ます。
 大きな橋がありました。

街道途中にある八幡宮の常夜灯
東海道をゆく 続く
2017.11.7作成
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