木津川
 有名な石清水八幡宮のふもとを通過して御幸橋(ごこうばし)を渡ります。
 このあたりは木津川・宇治川(淀川)・桂川の合流点です。

ごかうばし

淀川
 だだっ広い吹きさらしの場所です。
 追い打ちをかけるように雪が舞い始めました。
 さすが京都は寒いですねえ。
 宇治川を渡り終えると街道は右に折れて堤防の下をすすむルートです。
 ただし、この辺りは河川改修の結果、昔の面影はなさそうですが。

御幸橋
昭和5年のもの。

町屋が増えてきました。
 病院の前を通過して圓通寺を過ぎると、街道が突き当たりのT字になっています。
ここが明治治水工事前に木津川の堤防のようです。
 旧堤防を南に少し歩くと再び街道が左に折れて下り坂に。
ここが旧木津川に架かっていた淀大橋の跡なんだそうで。
 府道15号を過ぎると上り坂になって町屋がちらほら。
ここが江戸時代からある木津という町(現在は淀木津町)です。

淀川緑地
 淀川緑地までやってきました。
 この辺りは桜の季節には大賑わいなんだそうです。
 この淀川緑地、かつては淀城の外堀でした。
 孫橋を渡って淀城下へと入ります。

咲き始めてました。

町屋
 淀城下の街道沿いには古い町屋が散在しています。

天満宮
 小さな路地の奥に天満宮がありました。
 鳥居の年号は元禄8年でした。

元禄8年(1695年)の石碑

こちらは創業1704年の薬局
 淀は三つの川(木津川・宇治川(淀川)・桂川)の合流点にあり、かつ河内・大坂方面から京への入り口で、交通の要衝でした。
 豊臣秀吉も淀城(淀古城)を築いて押さえとしますが、伏見築城と小倉堤・豊後橋架橋による物流の伏見集約により、いったん廃城となっています。
 淀にお城が復活するのが江戸幕府の始まった後の元和9年(1623年)
 伏見城廃城にともない、京の西玄関の押さえとして新たに誕生しました。
 初代城主は松平定綱で3万5千石、継いで永井家、石川家、松平家と続いて享保8年(1723年)に稲葉正知が城主となって、以後明治維新まで10万2千石で続いています。
 本丸と二の丸が南北に並び、その周りを三の丸と西の丸が回の字に取り囲む縄張りで、その東側には巨大な馬出(東曲輪)がありました。
 東海道(京街道)はその東側を折れ曲がりつつ走っていました。

道標
淀川渡船場○丁、小掠湖15丁
などと書かれています。
 郵便局の角で街道を外れて左に曲がります。
 やがて京阪本線の高架下をくぐります。

昭和3年のもの
京都 三宅安兵衛の遺志に依り建立
とあります。

淀城天守台
 高架をくぐった先には淀城本丸が公園となって残っています。
 中には稲葉神社もあります。

淀城古図
川に挟まれた中州にありました。

石碑が天守台下に集められていました。
 淀城の天守は一風変わっております。
 当初廃城となった伏見城天守を移築する予定で天守台を築いたのですが、予定変更。
 伏見城天守は二条城に移築され、余った二条城天守が淀城にやって来ました。

天守台と京阪本線の高架

フェンスの隙間から撮影
穴蔵式の天守台です
 ところが天守が小さくて天守台の四方が余ってしまいました。
 その余ったスペースに二重櫓を架け造りにして4基配置し、その間を多門櫓で連結したそうです。天守も五重の立派なものだったので、さぞや圧巻だったでしょう。江戸時代に生まれたかったなあ(笑)
 あと、桂川に沿って水車が2基ありまして、城内へ水を取り込んでいたそうです。

天守台は柵があって入れません。

がんばって写真撮ってきました。

天守台東側
 徳川家光上洛の際、本丸御殿に宿泊したため、歴代藩主は二の丸で生活しました。
 宝暦6年(1756年)に落雷のため天守はじめ多くの建物を焼失。
 天守と本丸はその後再建されず。
 鳥羽伏見の戦いでは藩主稲葉正邦が老中であったにも関わらず、錦旗をみた藩兵が敗走する幕府軍に対して門を閉ざし、幕府軍は橋本へと撤退していきます。

刻印のある石

チャート石もありました。

本丸北側の堀と石垣
 平地にあるお城の悲しさ、淀城は現在本丸と南・西・北面の内堀を残すのみで、本丸とつながっていた二の丸まで宅地化の波に飲み込まれています。
 淀駅前の小さな商店街を抜けて納所交差点を東に曲がります。
 しばらく行くと、淀小橋跡の石碑がありました。
 淀城下の北、宇治川に架けられた橋で、長さは約130m、幅は約7mありました。
今では住宅地の真ん中にあって、ここに宇治川が流れていたとは思えない場所でした。
 京街道はここから桂川沿いの堤防上を北上していきます。が、我々は豊臣秀吉が築かせた淀堤の上を歩いて伏見に向かいます。
 立派な京都競馬場の建物を見ながらてくてくと歩きますが、もともと堤防上の道。
面白いものはまったくなく、ひたすら寒さに耐えながら歩いて行きます。

戊辰戦争戦死者の慰霊碑
 競馬場北側に戊辰戦争戦死者の慰霊碑がありました。
 街道のある堤防上が戦場になったようです。
 京阪本線を渡って堤防上を歩くと国道1号線に出ました。
 が、横断歩道がなく交通量が多すぎ横断を断念。
 横断歩道を求めて国道1号線を北上します。
 結局横大路交差点まで横断歩道がなく、街道を大きく外れます。

伏見が近づくと町屋が多くなってきました。

京都ラーメン
 大きくルートを外れたついでに遅いお昼ご飯。
 京都らーめんのお店で食べました。
冷えた体にしみました・・・
 そのまま京都外環状を歩き、鼓月の工場を見ながら府道124号線を歩きます。
府道115号線歩いていると、行列のできているラーメン屋を発見しましたが、すでに食べたあとでした・・・・

伏見港公園
 伏見の町までやって来ました。
 今でこそ京都市伏見区ですが、昔は京とは別の町でした。
 伏見は豊臣秀吉がその繁栄を築いた町です。
 伏見築城の際、小倉堤の建設と豊後橋の架橋、宇治橋の撤去により、奈良〜京を結ぶ街道を伏見城下へと付け替えました。
 また淀城廃城により、宇治川、巨椋池の水運を伏見に集約したことにより、伏見繁栄の基礎を築きました。

伏見口の戦い石碑

京橋の解説板
 また慶長年間に角倉了以が高瀬川を開削し、伏見は物流拠点としてますます繁栄しました。
 当時大坂へ向かう旅人は淀川の三十石船を利用することが多く、伏見港近くには船宿がたくさんありました。
 有名な寺田屋もその一つです。

ご存じ寺田屋

室内
 濠川前にお店を構えた寺田屋は、その立地のよさから繁盛したようで、坂本龍馬も利用しました。
 そこで坂本龍馬襲撃事件が起こったのです。
 また、寺田屋では薩摩藩志士の粛正事件「寺田屋騒動」も起こっています。
 いろんな人が伏見を訪れていたことがわかります。
 ところでこの寺田屋の建物、どうも明治時代の建物らしいのです。(明治38年の登記があるらしい)
 元の寺田屋はというと鳥羽伏見の戦いで焼失したとのことで、現在の建物は元の場所の西隣に再建されたものらしいです。
 経営者も寺田家ではなく、昭和30年代に「14代寺田屋伊助」を自称する人が営業を始めたものだそうで。
 そうだとするとなんだかなーって感じですね。

寺田屋前の壕川
かつては船が行き交っていたのでしょう。

町屋
 まあ有名なんで一回見とけばいいですね。
 でも高かった・・・
 寺田屋見たあとは酒蔵巡りをしました。

眼科

月桂冠
伏見夢百衆
 ここ伏見は灘・西條と並ぶ日本酒の産地で、たくさんの蔵が並んでいます。
鳥せいと山本本家

黄桜酒造
カッパのCMで有名ですね。
 たくさん蔵があって楽しかったのですが、観光客が多くてあまり落ち着いて見ることができませんでした。
 でも黄桜酒造で懐かしいカッパのCM見ることができました。
 あと、ビール飲んだのですが、注いでる途中で空になっちゃって、1杯おまけしていただきました。ラッキー
 あと魚屋通の幸餅さんのおまんじゅうが絶品でした。
 おすすめ。
 「英勲」というお酒を昔飲んだことがあって、斉藤酒造さんを見学に出かけたのですが、工場みたいな建物で、どこから入っていいのかわからず退散しました。

龍馬通り

松本酒造

伏見長州藩邸あと
 15:45分、京阪中書島駅に到着しました。
この日はトータル27キロ歩きました。
 大阪の百貨店で北陸物産展やってたので、江川の水ようかん買って帰りました。
どっと払い。
東海道をゆく 続く
2017.11.12作成
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