東海道
 南草津で朝を迎えました。泊まりがけでの街道旅は初めてなのでワクワクです。
 近くの西友で買ったパンで朝ご飯を済ませて出発します。
 ホテルから出たら寒いこと!
この日も苦戦しそうです。
 街道まで戻って旅を再開。
 しばらく歩いて道路を渡ると公園があります。
 東海道はこの公園内を抜ける形になります。
 公園内には一里塚跡の碑がありました。日本橋まであと119里です。

野路の一里塚跡

結構交通量のある東海道
 公園を抜けてすぐに国道1号線を横切って北側に出ます。
 草津市街への抜け道らしく、けっこう交通量があります。
 矢橋道への道標がありました。江戸時代にはここに姥ヶ餅を売る店があり、広重にも描かれました。
 ここは大津への船便が出ていた矢橋港への追分でした。

草津宿解説板

矢橋への道標

右 やばせ(矢橋)道
右 是より25丁 大津へ船渡し
とあります。
 「武士(もののふ)のやはせのわたりの近くともいそかはまはれ瀬田の長はし」と「急がば回れ」の語源となった歌の舞台になったのがこの場所なのです。
 矢橋から船に乗ると早く楽に大津に着けるのですが、比叡山からの吹き下ろしの影響を受けやすく、欠航することがままあったようです。
 そのため、急いでいても回り道した方が確実ですよ、という格言が生まれたと言う訳です。

街道の風景

街道の風景

まもなく立木神社
 新しく付け替えられた草津川を越えると旧草津宿の京口にあたる黒門跡になります。
 そこからさらに歩くと左手に立木神社がありました。

立木神社

樹齢400年のウラジロガシ
 立木神社の創建は古く、767年のことなんだそうです。
 ご祭神は武ミカヅチの命です。
 延暦20年(801年)、東北に出陣することになった坂上田村麻呂が、道中の安全を祈願したそうで、交通安全の御利益があるそうです。
 旅はまだまだこれからなので、お参りして道中安全をお願いしてきました。

旧追分標識
左 中仙道とあり
1680年のものです。

現在の草津宿
 草津宿ですが、所々に古い建物が残っていて名残をとどめています。
 一部きれいになった建物もありますが、空き地が増えているのが正直なところです。

所々にリフォームされた町屋が

蔵だけが残されていました。
 草津宿は中仙道と東海道の追分にあたり、大いに繁盛したそうです。
 天保14年(1843年)には本陣が2軒、脇本陣が2軒、旅籠が72軒あり、人口が2700人余りだったそうです。
 かつてあった本陣のうち、現存しない田中九蔵家には、のちの天璋院である篤姫が関東下向の際に宿泊しています。

解説板
 八百久の建物が残されていました。
 創業は江戸中期で、日用品を商ったお宅だそうです。
 建物は昭和3年のものですが伝統的な造りで、登録有形文化財に指定されています。
 昭和3年というと近い感じがしますが、それでももう90年前なんですなあ・・・

八百久の店舗兼母屋

酒蔵発見
 太田酒造の前まで来ました。
 かの有名な太田道灌の遠祖で、代々草津宿の問屋場総元締めを務めたお宅だそうです。

道灌蔵

街並みを楽しみながら歩きます。
 この日も寒くて震えながら歩きます。街並みはなかなか楽しかったですけどね〜
草津名物は「はこずし」
 草津宿本陣前まで来ました。
 田中七左衛門家です。弘化3年(1846年)の建物が現存しています。
 大福帳には浅野内匠頭、吉良上野介、土方歳三などそうそうたる有名人の名前があるそうです。
 朝早すぎて開いてないのはお約束です。
 (この時点で8:00くらいだったかな?)

中仙道との追分
左 中仙道
右 東海道 いせみち
 いよいよ中仙道との追分に到着しました。
 京都。大坂の商人たちによって立てられた立派な道標がありました。
 灯籠部分は今は木造ですが、かつては銅製だったそうです。
 立派なものですねえ。

京都、大坂、尾州、加州などの問屋たちが
建てたものです。

旧草津川の堤防に生える木々
右に写るトンネルは明治のもの
中仙道は正面の石段を登って
天井川である草津川を越えていました。
 追分を右に折れて東海道を進みます。
草津川沿いの旧東海道

堤防上に立つ常夜灯
文化13年(1816年)のもの
右 金勝寺しがらき道
左 東海道 いせ道
とあります。
ここが草津宿江戸口です。
 旧草津川の堤防まで上ってきました。
 旧草津川は天井川でしたので、こういうルートになります。
 堤防上には常夜灯がありました。
 付け替えが終わった旧河道にはコインパーキングが設置されていました。

かつての草津川はコインパーキングに。
解説板は草津川の渡しの説明です。
 草津川堤防を降りて国道1号線に出てきます。
 ここで街道を外れて寄り道。
 草津名物姥ヶ餅を買いにお店に向かいました。
 朝早すぎて開いていませんでしたが、開店まであと10分だったので待つことにしました。
 9:00,ようやく姥ヶ餅をゲット!
街道に戻って旅を再開します。

旧東海道と国道1号線の交差点
歩道橋の向こうに見えるのが、
旧草津川。
川をくぐっていたトンネルが撤去されていました。

栗東市に入ります。

老牛馬養生所跡
 草津宿を離れててくてくと歩きます。
 老牛馬養生所跡の碑がありました。
 天保n12年(1830年)、庄屋の岸岡長右衛門が老牛馬が余生を過ごせる施設を建てたそうです。
 東海道の輸送は牛馬に頼っていまして、働けなくなった牛馬は生きたまま皮をはがれていたそうで、いくら何でも生きたままはかわいそうだっということで、養生所を作って亡くなるまで面倒みたそうです。
 えさ代も馬鹿にならなかったと思いますが、立派な人がいたんですねえ・・・

是より東膳所領
膳所藩の飛び地があったそうです。

膳所城の城門
 この辺りは膳所藩の飛び地領があったそうで、その縁で膳所城の城門が移築されていました。
 どこの門かはわからないそうですが。

立葵は本多家の家紋

栗東市のマンホール
 目川には立場(旅人に飲食を提供した場所。立ったまま飲食したことからその名前がついたそうです)があり、菜飯田楽が名物でした。
 広重が石部宿として選んだのが目川にあった元伊勢屋でした。

京いせや跡

古志まや跡
 目川で菜飯田楽を提供していたお店は3軒あったそうで、それぞれに石碑が立てられていました。
ここが元伊勢屋跡
ここから西が膳所藩領でした。

目川の民家

目川の一里塚跡
日本橋まであと118里
 目川の一里塚を過ぎて街道は川沿いに右にカーブして丁字路に出ます。
 ここを左に曲がると東海道です。

東海道と金勝寺の追分に立つ
道標

遠くに雪をいただいた比良山系
手前に日清カップヌードルの看板(笑)
そりゃ寒いよねえ・・・
 鈎の陣碑がありました。
 室町幕府復興をかけて9代将軍足利義尚はここに陣を張り、病死した場所です。25歳でした。
 お父さんは銀閣寺で有名な足利義政、お母さんは日野富子です。

鈎の陣の碑

すずめの茶屋跡
 すずめの茶屋跡まで来ました。
 目川と同じく、菜飯と豆腐の田楽が名物だったそうです。
 名前の由来は、雀の集まる木があったからだそうで、日本昔話に出てくるような風景だったのでしょう・・・

東海道

立派なお屋敷です
 旧手原村までやって来ました。
 JR草津線手原駅に近いところです。

すごいなあ

旧代官所跡
長屋門に時計やさんが増築されてます。
 ここは旗本渡辺家の所領だったところで、代官を務めた猪飼家の屋敷跡が残っています。
手原醤油店

肩かえの松
 ここまで歩いてきて10:20。
 おやつを食べることにしました。

かつてこの松の下で、
旅人が肩の荷を入れ替えたそうで。

姥ヶ餅いただきます。
 先ほど買ったばかりの姥ヶ餅をいただきます。
 もうちょっと暖かいとよかったのですが・・・
 日が差すとまだマシですが、この日は雲が多くてなかなか日が差してくれません・・・
 お茶も冷えてしまってました。
 それでもまだまだ歩きます。

さて出発します。

おっぱい星人にはたまらないお菓子です。
東海道をゆく 続く
2018.1.14作成
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