亀山ローソク前バス停
 この日は亀山宿でゴールの予定でしたが、まだ時間があったので次の駅まで歩くことにしました。
 街道をてくてく歩いていくと、巡見道の案内がありました。
 三代将軍徳川家光が諸国に巡見使を派遣するために整備した街道で、亀山で東海道と分かれて三重県内を北上。関ヶ原で中仙道と合流する街道でした。
 現在はほぼ国道308号線となっています。
 亀山といえば亀山ローソク創業の地で、ローソクが有名だそうです。
 国内シェアの半分が亀山ローソクなんだそうですよ。
 亀山ローソク工場を通過してしばらく歩くと、一里塚が見えてきました。
和田一里塚で日本橋まで104里(416km)、北塚が復元されていました。

和田一里塚

白いたんぽぽ
 和田の一里塚からは下り坂。一度川まで下ります。石上蜜寺(延暦15年(796年)創建の寺)を過ぎて川を渡ります。
まだまだ信楽の勢力圈(笑)

井尻道道標
 川を渡ったところに井尻道の道標がありました。
 どこにいく街道なのかは分かりませんでした・・・

これが井尻道

東海道を歩いて行きます。
 4月ともなると暖かくて助かりますねえ。
3月はフリース重ね着で歩いてましたからねえ・・・

これより 神戸 白子 若松道
 街道は左へ大きくカーブして北上していきます。
 右手に大きな道標が。
 亀山藩領の若松港へ向かう街道の分岐点です。
 この道標は元禄3年(1690年)建立の古いものです。
 国道1号線の高架下をくぐり、椋川を渡りまして川合村までやって来ました。
 ここで街道は右へ折れて国道1号線を歩道橋でまたぎます。

これが街道です。

井田川駅
学生さんが駅前でたむろってました。
 井田川駅までやって来ました。
関西本線の駅です。駅舎も何もない殺風景な駅でした。
 時刻は16:0過ぎだったのですが、時刻表を見たら次の亀山方面ゆきは1時間後。駅前には何もないし、もう一駅歩こうってことになりました。

駅前には店もなにもないのですが・・・

井田川駅から北上を開始
 街道は右に大きくカーブして関西本線の踏切を越えます。
 踏切の手前で鈴鹿市に入りました。
 街道は自然堤防と思われる高台へと上っていきます。

道標が埋まっていました。
右 のぼ?
右 のぼの道
なんだそうで、
日本武尊能褒野(のぼの)墓への
道標なんだそうです。

見事な鏝絵
鶴と朝日?
 小さな集落を抜けて安楽川まで来ました。
古そうな公民館
奥に見えているのは安楽川の堤防

和泉橋
かつては土橋の渡しがあったところです。
 安楽川にはかつて土橋(出水時は徒歩渡し)があったそうですが今はなく、少し下流に和泉橋があるのでそちらを渡ります。
 再び街道まで戻ったところに川俣神社がありました。

川俣神社
治水の神様です。
境内には神戸城主織田信孝が愛飲した
わき水があったそうです。

鈴鹿市のマンホール
 鈴鹿市のマンホールはトンボでした。
信楽焼

ひろせ道道標
 ひろせ道道標がありました。
 少し北にあった広瀬村への道標と思われます。

影がなが~くなってきました。

これより西 亀山領
 影が長くなってきたので先を急ぎます。
 街道の右にまたも川俣神社があり、その手前に「これより西 亀山藩領」の碑がありました。

富田一里塚跡
神社の中にありました。
日本橋まであと103里(412km)!

解説板

是より東 神戸(かんべ)領
神戸は1万5千石 本多家が治めました。
神戸は織田信長の三男信孝が養子に入った
神戸家発祥の地です。
 さらに歩くと神戸領碑、女人堤防の碑がありました。

女人堤防の碑
内容は下に書いてみた

解説板
 この辺りは安楽川と鈴鹿川の合流点で、たびたび水害にあっていました。
 しかしここに堤防を築いてしまうと対岸にある神戸の城下町にあふれた水が流れ込む危険性があることから、堤防の建設は許されませんでした。
(尾張藩にも似たようなお話ありますねえ)
 命令違反は打ち首になるため、誰もがあきらめていたとき、菊女という女性が立ち上がりました。
 「男たちに堤防を堤防工事をさせると全員打ち首になり、自分たちまで生きていくことができない。ここは女性が立ち上がり死出の仕事にしよう!」
 女性なら罪が軽くなるかもという見込みがあったのかどうか、女性たちは闇夜を選んで工事を続け、6年後に堤防は完成しました。
 当然藩主に無断工事が発覚。工事に関わった女性200名余りは斬首の沙汰となり、一番手菊女がまさに処刑されようとしたその時、家老松野清邦決死の諫言による助命の早馬が到着。
 200余名は無罪放免。築堤の褒美として金一封と絹五匹を送られたとのことです。

是より東 神戸領
 江戸時代には立派なお話多いですよね。
 汲川原の交差点のややこしい高架下を通過してしばらく歩くと、庄野宿に到着です。

庄野宿碑
 庄野宿の成立は遅く、寛永元年(1624年)のことでした。
 貧しい宿場だったようです。

現在の庄野

高札場跡
 その理由は立地につきるそうで、多かったお伊勢参りの旅人は、江戸からの場合は日永の追分から参宮道ルートへ。
 上方からは関宿から伊勢別街道ルートを通るため、庄野宿を通るお客さんが少なかったそうです。

庄野宿本陣跡

庄野の建物
 さらに七里の渡し手前の桑名宿や、鈴鹿峠越えを控えた関・坂下宿を利用する旅客が多かったため、利用者が少なかったことが追い打ちをかけました。
いつぐらいの建物なんでしょうかねえ

庄野宿資料館
旧小林家の住宅で、嘉永7年(1854年)築だとか
時間が遅くてしまってました・・・
 なので、宿場は今まで歩いてきた中で一番規模が小さくて、あっという間に通過してしまいました。

庄野宿を描いた広重の版画
急な雨に右往左往する旅人を描いています。

庄野宿最寄り駅
加佐登駅
この駅の開業は古く、明治25年になります。
明治23年の関西本線開業に遅れること
わずか2年。
当時は高宮駅でした。
 私と相方さんの前を女子高生二人組が歩いていました。
 時々小走りで走っているのを見て、
「電車来るのかもよ!」と気がつき、慌てて我々も走り出しました。
 走る女子高生二人を追いかけるおっさん。
 どう見ても怪しい人です。

駅構内はかなり広いです。

電車がやって来ました。
亀山までは電化されてます。
 この時ほど相方さんがいてくれたことを心強く思った事はありません。
 もし、相方さんがいなかったら、私は通報されていたかもしれません・・・
 相方さんは疲れていて間に合うかどうか危ぶまれましたが、なんとか間に合いました。これ逃すとまた30分待ちですからね・・・

乗車証明書
 亀山駅まで戻って歩きでホテルへ。
 お昼にがっつり焼き肉食べたので、晩ご飯はローソンのざるそばとかけそばでした。
 この日は午後からスタートにもかかわらず、結局23キロ歩いたのです・・・
東海道をゆく 続く
2018.3.4作成
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