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![]() 道の駅 針テラス 関西圏のライダーが多数集まります。 |
東海道の旅も桑名宿までやって来ました。 これからも天気のいいときに歩こうという計画で、5月はGWと月半ばに連休を設定。どちらか天気のいい方で街道を歩くことになりました。 週間予報とにらめっこした結果、2017年のGWは、すばらしく天気に恵まれることが判明。このチャンスを逃すものかと、珍しくGWに出撃します。 |
![]() 奈良の山々 |
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![]() 四日市 国道23号線を北上 |
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![]() 木曽川を越えます。 |
連休に先立ち5月2日に休みを入れて、渋滞前に移動を終了しようという作戦。 しかし平日ゆえ、高速代節約のため下道をひた走ります。 ようやく名古屋市内に到着しました。 |
![]() 七里の渡し跡 |
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![]() 宮宿 |
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![]() 宮宿の浮世絵 |
さて、東海道は水害の多い木曽三川を避け、桑名と宮(熱田)間を船で渡るルートを取っていました。 もちろん、海路を避ける佐屋街道というルートもあったのですが、我々は宮宿から街道旅を再開することにしました。 |
![]() 今は海は遠くなりました。 |
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![]() 古い町屋 |
熱田宿のあった場所には、とってもおいしいお店がございます。本日の昼食はそのお店でいただくことにしまして、開店までの間に街道を少し歩くことにしました。 | ![]() 明治29年の建物なんだそうですが、 古い様式を残しているので 市の有形文化財なんだそうです。 |
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![]() 丹羽家住宅 |
七里の渡し前に旅籠やの建物が残っていました。 かつて「伊勢久」という旅籠であった丹羽家の建物です。 棟札によれば文化5年(1808年)の建物です。脇本陣格の旅籠だったそうで、破風付きの玄関が格式を今に伝えています。 西国大名の提灯箱も保管されているそうです。 宮宿は熱田神宮や名古屋城下を控えた東海道最大の宿場町で、天保14年には本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠は248軒、家数2924軒、人口は1万人を超えていたそうです。 |
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![]() 東海道 |
また宮宿には西浜御殿や東浜御殿などの尾張藩の御殿があって、大名や幕府高官などの供応に使用されていたそうです。 | ![]() 弥次喜多の埋め込み板 |
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![]() 西浜御殿跡 |
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![]() 歩道橋から北側を見る 正面が東海道 |
東海道は国道247号線の大きな道路で分断されています。 歩道橋を渡って東側へと向かいます。 |
![]() 歩道橋から南側を見る 正面の道が東海道 右側の建物が有名な 熱田蓬莱軒 |
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![]() 東海道 |
歩道橋を降りて東海道を歩きます。 すぐに美濃路との追分があります。 追分の西側には源太夫社という立派な神社があったそうですが、戦後熱田神宮内に移転し、跡には東海道沿いにあったほうろく地蔵が移されていました。 |
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![]() これが追分の道標 |
追分には道標がありました。 北 さや(佐屋)つしま(津島) みのぢ(美濃路) 東 江戸かいどう 南 いせ 七里の渡し と刻まれているそうです。 |
![]() 解説板 |
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![]() 伝馬町界隈 |
道標の三つ辻を右に曲がって東に歩きます。 この辺りは伝馬町で、東海道を行き交う荷物を運ぶ運送業者が住んだ町です。 |
![]() おいしそうな和菓子屋さん |
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![]() 黄飯 愛知県の一部の地域では 端午の節句の男の子のお祝いに クチナシで色づけした黄飯を 食べる風習があるそうです。 |
角にはおいしそうな和菓子屋さんがありましたが、もうすぐお昼ご飯なもので自重しました。 伝馬町も半ばまで来たときに昼食のお店の開店時間が迫ってきたので、来た道を引き返しました。 これから東海道を歩くという景気づけに、熱田蓬莱軒でひつまぶしを奮発いたしました。 これで元気もりもりでございます。 で、とりあえず今宵の宿にチェックインして車を置いておくことにしました・・・が、車高が高くて立体駐車場に車が入らず、今日は平面駐車場がいっぱいだと言われてしまいました・・・ 仕方がないので熱田まで引き返し、コインパーキングに車を停めていくことにしました。 |
![]() ひつまぶし! 熱田蓬莱軒さんです。 |
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![]() とりあえず車を置きにいくことに。 |
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![]() 裁断橋 |
ちょっと予定が狂いましたが、伝馬町から旅を再開します。 姥堂・裁断橋跡を通過しました。小田原攻めの時に病死した息子の菩提を弔うために母が架けた橋です。 息子への想いが断ちがたいことから裁断橋の名が付きました。 裁断橋を過ぎると伝馬町の一里塚跡がありました。 日本橋まであと89里(356km)です。 |
![]() 伝馬町一里塚跡 |
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![]() 名鉄常滑線の高架下をくぐります。 |
常滑線の高架下をくぐり、JR東海の東海道本線の手前まで来ました。 トヨトミという名古屋らしい名前の会社の看板を発見しました。 暖房器具のメーカーだそうです。 |
![]() トヨトミとは豪勢な名前です。 |
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![]() 名古屋市のマンホール アメンボ? |
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![]() 貨物列車通過 |
国道1号線の高架下側道を歩くと東海道本線の踏切がありました。 貨物列車と電車の通過待ちをします。 |
![]() JR東海の電車通過 |
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![]() 山崎川沿いの秋葉神社 |
東海道はまもなく国道1号線を外れて山崎川を渡ります。 この辺りは呼続(よびつき)という地名です。 この辺りはかつて海辺でして、浜辺で名前を呼び合いながら渡ったことからその名前がついたそうです。 |
![]() 上り坂を歩きます。 |
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![]() 熊野三社 永禄年間創建 山崎城の守護神でした。 |
呼続郵便局を過ぎたところに熊野三社がありました。 織田信長家臣、佐久間信盛の居城であった山崎城。その鎮守として勧請された熊野三社で道中の加護をお願いしてきました。 |
![]() 名鉄名古屋本線をはさんで 向こうに見える緑の小山が安泰寺 佐久間信盛の居城、山崎城跡です。 |
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![]() 松巨嶋(まつこしま)の手水鉢 |
呼続一帯は台地で、かつては海に取り囲まれた景勝地だったそうで、松巨嶋と呼ばれていたそうです。 街道の少し南にある白毫寺あたりは遠浅の海だったそうで、「あゆち潟」と呼ばれていたそうです。 「あゆち」が愛知になったそうですよ。 熊野三社からさらに街道を進むと、鎌倉往還との交差点を通過しました。 |
![]() 鎌倉街道跡 |
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![]() 地蔵院 |
鎌倉街道との交差点には地蔵院がありました。 湯浴地蔵とも呼ばれているそうで、願をかけて成就の札にお湯をかけるそうです。 さらに歩くと富部神社がありました。 本殿は慶長11年(1606年)建立。 関ヶ原合戦後、清洲城主となった松平忠吉(徳川家康の4男。徳川秀忠の同母弟)が病平癒の礼に寄進したものだそうです。 |
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![]() 富部神社 本殿は格子越し |
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![]() 名鉄特急「ミュースカイ」 セントレアへの特急です。 |
名鉄本笠寺駅の踏切を渡ります。 環状線を横切って笠寺へと歩きます。 笠寺の前には泉増院がありました。 祭神は玉照姫。縁結びの御利益があるそうです。 玉照姫の伝説は、いわゆるシンデレラストーリーです。 美濃の豪族の娘であった姫は、鳴海の長者の召使いになっていました。しかし心優しい姫は、風雨にさらされていた観音様に自分の笠をかぶせてあげたそうです。 その優しさを藤原兼平に見初められて二人は結婚したそうです。 二人の出会いの場所は立派なお寺(笠寺観音)が建てられ、笠をかぶった観音像が祀られているという訳です。 |
![]() 笠寺商店街 門前市から続く商店街かな? |
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![]() 泉増院 玉照姫が祭神 尾張徳川家の姫君付奥女中の 信仰篤かったそうです。 |
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![]() 笠寺の山門 |
笠寺ってそういう由来があったんですねえ・・・ 渡しは桶狭間の前哨戦で笠寺の砦とかしか知らなかったので新鮮でした。 |
![]() 立派です。 |
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![]() 笠寺付近の東海道 |
お寺よりも桶狭間の戦跡に興味津々の私。 笠寺の東にある笠寺公園にのぼり、ここが笠寺砦の跡なのかなあ~と妄想をふくらませておりました。 街道に戻って先に進みます。 笠寺一里塚は東塚が現存しています。 日本橋まで88里(352km)です。 |
![]() 笠寺公園から笠寺を見る |
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![]() 笠寺一里塚 榎の老木が残っています。 西塚は大正年間に取り壊されたそうです。 |
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![]() 笠寺一里塚 |
笠寺を過ぎて天白川を渡ります。 川を渡って県道59号線を横切った辺りで切り立った崖の下の道になります。 現在の県道222号線が東海道になります。 しばらく崖下の県道を歩くと台地の切れ目が。 ここが桶狭間戦記に出てくる丹下砦の跡になります。 |
![]() この坂の上が丹下砦跡 |
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![]() 丹下砦の少し南に常夜灯が 丹下町常夜灯で、 寛政4年(1792年)建立です。 鳴海宿の西口に建てられました。 |
丹下砦hは、今川方の城であった鳴海を包囲すべく、織田方が築いた砦の一つになります。 現在はお家がたくさん建ってしまって、どこにあったのかよくわからなくなってます。 その先の常夜灯からが鳴海宿の始まりです。 |
![]() 変わった押しボタン信号 |
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東海道をゆく 続く | |||
2018.4.22作成 | |||
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