藤川駅に戻ってまいりました
 翌朝、ホテル送迎のバスに乗り込んで名古屋駅に向かいます。
 名古屋駅から790円切符を買って乗車。昨日の中断地点である藤川まで戻ってきました。
 8:15に到着したのですが、どうした訳かお腹を壊しまして、駅北側の道の駅トイレに立てこもっていました。
 8:45、ようやく旅を再開です。

歌川豊広
藤川の棒鼻みわたせば
杉のしるしと棒タコの足
吉良から運ばれてきたタコが売られて
いたことがわかります。

松尾芭蕉が詠んだむらさき麦
 陸橋を渡って駅南側の街道に戻ります。
 「ここも三河 むらさき麦の かきつばた」と松尾芭蕉が詠んだそうで、かつてこの辺りではむらさき麦が栽培されていたようです。
 一度途絶えたものを復活させようとしていました。

藤川宿の町屋
 街道を東へと歩いて行きます。 
関山神社常夜灯

宿場内を歩きます
 雰囲気は残っていると思いますが、建物はあまり残っていませんでした。
資料館
脇本陣の跡が資料館になっていました

高札場跡
 高札場跡、本陣跡を通過します。
本陣跡
奥に当時の石垣が残っているそうですが
気がつかなかったな・・・

銭屋
 軒卯建をあげた旧商家「銭屋」の前を通過しました。
こちらもなかなか立派な商家です。

なんだこのお城みたいな建物は?
人形処ってなんだろう・・・
 お城みたいな商家があったり、なかなか面白いです。
 津島神社の常夜灯がありました。この神社の本殿は名鉄名古屋本線と国道1号線を越えたところにあります。

津島神社
踏切の向こうに鳥居がありました。

東海道五三次 藤川宿
幕府が朝廷に馬を献じた
御馬献進とそれを迎える役人が描かれてます。
広重は天保3年(1832年)に
この行列に加わって上京したそうです。
 藤川宿の東口まできました。
 ここから再び国道1号線と合流します。

寛政七年(1795年)の
常夜灯
茶屋があったそうです。

ここが藤川宿の東口

名鉄舞木検査場
 山中八幡宮の麓まで来ました。
 三河一向一揆のとき、徳川家康がこの山の中腹にある洞窟に身を隠して難を逃れたとの伝承があります。

山中八幡宮

山中八幡宮
 山中八幡宮には徳川家康が寄進した鳥居があり、東照宮も祀られており、三代将軍家光も上洛の際に参拝したそうです。 
山中八幡宮
天保4年(1833年)の常夜灯
先を急ぐので遠目の写真のみです

舞木村の松
 国道1号線を北側に渡って側道に入ります。
 この辺りは旧舞木村で、名残の松がそこかしこに残っていました。

本宿入り口
 名電山中駅を過ぎて再び国道1号線と合流。今度は国道を南側に渡って側道に入ります。
 この辺りが本宿になります。

側道煮はいります。

宇津野龍碩邸跡(長屋門)
 宇津野龍碩の屋敷跡がありました。
 宇津野家は代々お医者さんで、7代龍碩はシーボルト門下青木周弼に学んだ蘭方医だったそうです。

本宿一里塚跡
日本橋まであと78里(312km)

秋葉山常夜灯
 本宿はその名のとおり宿場のあったところで、江戸時代初期まではとても賑わっていたそうです。
 宿場町の整備が進む中で本宿は宿場の指定から外れ、間の宿となりました。

建立は寛政13年(1801年)

商家
 本宿は江戸時代は旗本 柴田出雲守(柴田勝家の子孫)の所領で、代官所が置かれました。
 代官は富田家が世襲しまして、その子孫は病院を開業されています。
 

代官宅
文政10年(1827年)の建物

宝蔵寺橋
 大宝元年(701年)行基創建といわれる宝蔵寺がありました。
 家康が幼少期に過ごしたお寺だそうで、参勤交代の行列は門前通過時は下馬したそうです。
 新撰組局長近藤勇の首塚があるそうです。

宝蔵寺

名物 宝蔵寺団子の解説
あぶった団子をたまり醤油で
味付けしたものだったそうです。
 街道は再び国道1号線と合流しました。
本宿からの東海道とと国道1号線の合流点

国道の側道を歩きます
 この辺りは国道沿いに工場が点在するありがちな風景。
 見所もないのでひたすら先を急ぎます。

豊川市に入りました。

音羽町のマンホール
赤坂宿がテーマ
現在は豊川市に合併されてます。
 県道374号線(といっても右の写真のような道ですが)が、旧東海道。
 国道1号線から離れて再び脇道に入ります。

国道1号線から側道への分岐を
振り返る

常夜灯
弘化3年(1846年)のもの
落馬して死亡した旅人を供養したもの
だそうです。
 峠を越えて来ているので少し雰囲気が変わったのが面白いところです。
 ここから街道は豊橋を目指して下っていきます。

旧長沢村

秋葉山常夜灯
 長沢には十八松平と呼ばれる三河松平家の分家がありました。
 三河松平三代信光の十一男親則から始まる家で、ここ長沢に本拠を構えたため、長沢松平家と呼ばれました。
 ここに養子に入ったのが徳川家康の6男松平忠輝です。

長沢小学校
校庭は寛永11年(1634年)
3代将軍家光上洛時の御殿跡だそうです。

そもそもココには長沢城があったようで
 ご存じの通り松平忠輝は改易されたため、長沢松平家は断絶してしまいました。
 血統は続いていたのですが、幕府に長沢松平家と認められたのは享保4年(1719年)のことだったそうです。
 長沢城があった山は、国道1号線の拡張工事で分断されたそうです。

長沢城絵図
御殿の北側にお城があったようです。

長沢一里塚跡
日本橋まであと308km
 長沢は東西三河の結節点だったため、分家が置かれたんでしょうねえ~
 この辺りは見所が少ないので黙々と歩きます。

街道絵図に描かれた
長沢一里塚

一里山庚申道道標
 半分埋まった道標を発見しました。
こういうのはちゃんと残してほしいものですねえ。
 地図を見るともうすぐ赤坂宿。歩くペースも上がります(笑) 
東海道をゆく 続く
2018.6.17作成
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