名鉄の車窓から
 いよいよ最終日になりました。
 この日は名古屋鉄道の企画切符を往復買って乗車しました。
 土日は往復1540円になるのですが、競合するJR東海は豊橋の次、二川駅まで乗れて同じ値段なので、JRで行けばよかったとすこ~し後悔です。

矢作川と岡崎城

豊川を渡りました。
 JR豊橋駅に間借りしている名鉄豊橋駅に到着しました。
 豊橋駅の構内線はかなり複雑でした。
 ここでJRに乗り換えて二川駅を目指します。
 9:00に二川駅前を出発しました。

二川駅に到着
豊橋方面を見ています。
左の高架は新幹線

二川駅前
 二川宿は元々二つだった村を合併してできた宿場でした。
 宿場の負担がいかに重かったかが分かります。
 二川宿には本陣が1軒、脇本陣も1軒、旅籠が30軒ほどあり、街並みは1.3kmほど続いていました。

二川宿の絵図

二川宿の浮世絵
おしゃべりしながら歩く
女芸人たちを描いています。
名物は柏餅だったようです。

うばぐるまだけで商売
成り立つのかなあ?
 鉄道が開通しても二川には駅がありませんでした。
 その後駅ができたのですが、宿場の西外れにできたため、今でも宿場の雰囲気を残していました。

そこかしこに古そうな町屋が

こちらも
 これが結構いい感じなのです。
 三重県にある関宿まではいきませんが、愛知県内では有松についで屈指の景観でしょう。
 有松は間の宿だったので、宿場としてはトップじゃないかなあ。

こちらは1階を前に
せり出してますね。

町屋が点在しています
 この日は朝から天気もよく、日差しが強くて気温もぐんぐん上がりました。
 早くもバテ気味です(笑)

狭い道路を車が行き交ってます。

空き地も目立ちます。
昭和50年代くらいなら
まだまだたくさん町屋があったことでしょう。
 宿場の枡形までやって来ました。
 ここには高札場があり、明治に建てられた二川町の道路元標が残っていました。

高札場跡

中原屋さん
 枡形跡の高札場のあったところに和菓子屋さんがありました。
 ものすごい行列だったので入ってみることにしました。
 思い出してみれば今日は端午の節句。
 近くの皆さんが柏餅を買いに並んでました。
 我々も東海道の浮世絵に倣って柏餅を買おうと並びました。
 今日は距離を稼ごうと思ったのに、早くも停滞です(笑)

柏餅
美味しゅうございました。

レモン餅
この辺りはレモンが有名なようです。
これが意外においしい。
お近くにお越しの際はぜひ!

西駒屋
 かなり待ちましたが、待っただけのことはありました。
 大変おいしかったです。
 しばらく歩くと西駒屋さんがありました。
 味噌・醤油醸造の商家で、建物は明治時代のものです。
 その斜め前に本陣がありました。

二川本陣

本陣表門から式台玄関を見る
 文化4年(1807年)から明治まで本陣を務めた馬場家のお屋敷です。
 昭和60年に馬場家から市に寄贈されて整備されたそうです。
 宿場町は数多くありますが、本陣遺構が残っているところはとても珍しいのです。

立派な卯建です。

宿泊する大名のみが使用した
式台玄関
幔幕は吉田城主
松平伊豆守家の紋
「三蝶円内十六葉菊」です。
 資料館も併設されていてとても楽しめます。
 この日は端午の節句で、抹茶と菓子の振る舞いがありました。
 ごちそうさまでした。

麩まんじゅう

大名が使った上段の間
 ちなみに生麦事件を起こした島津隅州久光一行は、事件8日後にここで休息しています。
 この上段の間を含む書院棟は復元されたものです。

立派な床の間です。

 こちらは母屋で、宝暦の大火のあと建てられたもので、1753年築です。
 たくさんの竈が本陣利用者の多さを物語ってます。

梁も立派です。

店の間です。
到着した旅人はまず
埃で汚れた足を洗いました。
 本陣のお隣、清明屋という旅籠の建物も現存していました。
 こちらは本陣に隣接していたため、大名家の家老などが宿泊に利用していたようです。

店の間

裏庭
 こちらは文化14年(1817年)に建てられたものだそうです。
 奥座敷には床の間もあって、格式高いものでした。

奥座敷

上客用のトイレ
 ちなみにトイレも奥座敷用と、その手前にある一般用?のトイレでは格式が違いました。
 トイレにも格差があるというのがすごいですね~

上客用の小用トイレ

宿の食事が再現されていました。
 宿での食事が再現されていました。
結構おいしそうです。

本陣の屋根
連なって美しいものです。
 せっかく9時に出発したのに、本陣を出たときにはもう11時になっていました。
 これはまずい展開です・・・

西駒屋正面

駒屋
 二川宿東の枡形前に駒屋の建物がありました。
 母屋は文化10年(1813年)のものです。
駒屋ははじめ医者で、後米穀商や質屋を営んだそうです。

なかなかのものですね
 明治末期から大正時代に建てられた離れ屋敷が母屋裏手にありました。
 来客用に建てられただけあって、立派な床の間のついた部屋がありました。

次の間にも床の間

駒屋隣の町屋も立派です。
 永仁3年(1195年)に鎌倉鶴岡八幡宮を勧請した八幡社がありました。
八幡社

二川宿外れの小さな橋
「筋違橋」
 二川宿を外れて小さな橋を越えました。
 鳥の糞だらけの新幹線高架下をくぐり、国道1号線と合流します。
 この辺りは「江戸道中記」に「夜道慎むべし」と書かれたあたりで、現在も見せ場のない道が続きます。
 じりじりと照りつける太陽に耐えてひたすら歩きます・・・

国道1号線
東海道をゆく 続く
2018.7.8作成
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