国道1号線
 何もない国道1号線の歩道をてくてくと歩きます。
 酪農家が近くにあるらしく、においが風で運ばれてきます。
 日差しは強烈で、気温もぐんぐん上がってきました。

細谷の一里塚跡
東塚が現存

お社がありました。
 日本橋まであと71里(284km)の細谷一里塚がありました。
 木陰で少し癒やされました。
 一里山東交差点で国道を外れて県道を歩きます。

静岡県に入ります。
遠江国境です。

この小さい川が国境
その名も境川です。
 県道をしばらく歩くと小さな川があり、いよいよ静岡県(遠江國)に入りました。
 ようやく到着した静岡県に感慨ひとしおです。少し元気が出てきました。

村社笠子神社

街道案内
 塩飴なめて塩分補給しながら黙々と歩きます。
 笠子神社を過ぎてしばらくで県道も外れて歩きます。
 ここからが白須賀宿です。
白須賀の「須賀」は砂浜の意味で、その名前のとおり浜辺の宿場町でした。

谷川道道標
 ところが宝永4年(1707年)の大地震による津波で宿場は壊滅。
 高台にある現在地に宿場は移転したのです。

白須賀の様子

とにかくいい天気
 天保年間の記録によれば旅籠が27軒と中規模の宿場町でした。
 白須賀宿手前の加宿であった境宿の名物は柏餅だったそうです。

ゆるい上り坂を登ります。

とにかく見事な五月晴れでした
 坂の勾配がきつく、鉄道が敷設されなかったため、宿場町の雰囲気をそこはかとなく残していました。
本陣跡
木村庄左衛門の屋敷
建坪183坪あったとか

古い町屋がちらほら
 気温が上がってきたのとお腹が空いてきたので少々バテ気味でございます。
昔から変わってなさそうな道幅

枡形跡
 時刻も12:00を回っておりました。
枡形は「曲尺手(かねんて)」
と呼ばれていました。

上り坂が続きます。
 白須賀宿から丘一つ越えたところにできた東海道本線鷲津駅への道標が残されていました。
鷲津停車場往還道標

このお宅なんかいい感じです。
 白須賀宿を過ぎた場所に白須賀小中学校がありました。
 ここにはかつて織田信長をもてなすために徳川家康が建てた御殿があったところです。
 明治天皇の行幸の際にも休息場となりましたが、現在は学校になってしまいました。
 御殿跡は公園になっていたそうで、その隅っこに記念碑がたくさん建っていました。

塩見坂公園跡にある明治天皇の
記念碑

海だ!

 道の途中に白須賀宿に関する小さな博物館がありました。(宿泊もできるようです)見学とトイレ休憩を兼ねて立ち寄りました。
 変化のない景色が続きましたが、ようやく海が見えました。
 太平洋(遠州灘)です。

この辺りは赤土でした。

東海道53次
白須賀
 かつて広重が描いた景色がもうすぐです。
 小学校を過ぎてしばらくいくと道が下り坂に差し掛かりました。

いよいよ塩見坂です。

おおっ
 ここが東海道の名勝、塩見坂です。ここまでの単調な景色を思うと、ここで心奪われた旅人の気持ちがよく分かります。
うおー!

いい景色です。
 けっこう急な坂ですがゆっくりと下っていきます。
ここを下ってきました。

明治頃建てられたらしい道標
 坂を下りきると道は左手に鈎折れします。
 そこからは平坦な道がほぼ一直線に伸びています。

道は東に折れて
一直線です。
 この辺りが元町という場所で、元白須賀、いわゆる津波で移転する前の白須賀宿があった場所です。

神明神社
 白須賀の一里塚跡まで来ました。
日本橋まであと70里(280km)です。

高札場跡と
一里塚跡

湖西市のマンホール
 アップダウンが少ないのはありがたいものの、ときおり現れる松並木以外の見所がないのがつらいところ。
 太陽も背中から照りつける展開でなかなか厳しいものがありました。

街道をひたすら東へ歩きます。

あの松林の向こうが国道1号線です。

教恩寺
源頼朝が寵愛した遊女が
尼となって建立した寺だそうで。
門は江戸時代のもの
 長く単調な道を歩いて行くと、山裾をまくように左にカーブしていきました。
 道は県道へと合流していきます。その交差点に教恩寺がありました。
 県道をしばらく歩いて橋本交差点を左折するのが東海道のルート。
 道なりに右にカーブすると棒鼻跡がありました。ここからが
新居宿
です。

棒鼻跡
宿場の入り口です。
宿場を利用する大名などは
ここに立て札を立てて利用を知らせました。

一里塚跡
 ここ新居宿でも宝永大地震の損害は大きかったようで、地震と津波で850軒が倒壊したそうです。
 新居関が現在地に移ったのもこの時だそうです。
 新居の一里塚跡です。江戸まで69里(276km)です。塚木は東が榎、西が松だったそうです。

町屋

池田神社
 街道東に池田神社がありました。
 ここには天正12年(1584年)小牧長久手合戦で池田恒興を討ち取った永井伝八郎が首塚を築いたところです。

秋葉常夜灯

この空き地が本陣跡
疋田八郎兵衛屋敷跡
建坪は193坪あったそうです。
 国道301号線との交差点近くに二つの本陣跡がありました。
こちらも本陣跡
飯田武兵衛屋敷跡
建坪196坪
明治天皇が宿泊したそうです。

交差点を右に曲がると紀伊國屋
 交差点を右に曲がると紀伊國屋がありました。
 紀州出身の創業者が江戸時代初期に新居に移住して茶屋を開いたのが始まりだそうです。
 元禄17年(1703年)には紀州藩の御用宿になっており、正徳6年(1716年)には「紀伊國屋」の屋号が許されています。

紀伊國屋の料金は
1泊2食付で4000円くらい
今とあまり変わらないですねえ。
ちなみに名物は鰻の蒲焼きだったそうです。
 紀伊國屋は御用宿だったので、主な利用者は紀州藩の関係者だったそうですが、月に50人ほど一般客が利用していた記録が残っています。
 紀州藩の御用がないときは一般客を泊めていたのでしょう。
 紀州藩ではこのほかに「お七里役所」という役所を東海道に置いていました。
その内容はというと江戸~和歌山間の街道に七里(28km)ごとに役所を置いて5人一組の継飛脚を配置、江戸表と国元とを結んでいたのです。
 普通便は月に3便、江戸は5の日、和歌山は10の日に出発。江戸~和歌山間を8日で結んでいたそうです。今で言うと東京~和歌山を光専用回線で結んでいた感じでしょうか。
 特急便は4日で到着したそうです。

あとひきせんべいのお店
 紀伊國屋をあとにして、地元の名物を購入しながら歩き続けます。
これがまたうまいのです。

新居関
 新居関に到着しました。
 「入り鉄砲に出女」を厳しく取り締まった関所です。

新居関の建物

この水門の向こうが浜名湖
 さて、江戸時代であればここから渡し船で対岸の舞阪に向かうところ。
 現在は渡しがないので、JR新居町駅から電車に乗ります。

東海道53次
新居宿

新居宿
東海道をゆく 続く
2018.7.16作成
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