掛川駅前
 昨夜は高塚から40km移動して掛川泊まりでした。
 今日は6:30から朝ご飯を食べて、早めに出発しました。
今回の旅行にあわせて破れてしまったジーンズの代わりに登山用のズボンを新調。
底のすり減った登山靴も新調し、気合い十分で街道旅にいどみます。
 掛川駅から410円、天竜川駅を目指します。通勤・通学の人たちと一緒に揺られて20分、天竜川駅に到着しました。

六所神社
 8:10、天竜川駅前をスタートします。
 天竜川駅入り口交差点に六所神社がありました。
 建治2年(1276年)に尾張国から勧請された神社だそうです。
 神社前にはお宮の松という巨大な松があったそうですが、惜しくも昭和54年の台風で被害を受けて伐採されたそうです。

題目碑

松並木
 この日も快晴。強い日差しが照りつけて厳しい旅となりました。
立派な松です。

遠州は凧が有名でしたね。
 てくてく歩きまして、国道1号線の下をくぐりました。
 遠州といえば凧揚げが有名ですが、元々長男の誕生を祝って端午の節句に凧を揚げていたのが始まりだそうで、最古の記録は江戸中期にさかのぼるそうです。
 今でも浜松祭りで凧揚げしてますね。

国道1号線の高架下をくぐります。

金原明善翁生家

凧のマンホール
 金原明善生家は東海道沿いにありました。
 この方は天竜川の治水工事に功のあった方なんだそうです。
 東橋は旧中野町の入り口に当たる場所でして、中野町は天竜川下りの木材集積地として明治時代栄えていたそうで、カフェーなんかもあったそうです。

東橋跡

伊豆石の蔵
 当時の繁栄を伝える建物が残っていました。
 伊豆から運ばれた石で出来た蔵です。
 木材の集積地で栄えた中野町は、同じく水運で伊豆・東京とつながっていました。

立派です。

浅野茂平顕彰碑
明治27年に建立
明治天皇東下の際、天竜川に
船橋を架けて功があったそうです。
 ちなみに中野町の町名は、かつての東海道のちょうど中間点(京・江戸どちらにも62里28町)であったことから「中の町」と呼ばれたことに由来します。
中野町には銀行もありました。

六所神社
堤防沿いにありました。
 天竜川には舟橋や木橋が架けられていましたが、たびたび流失。
 昭和8年に天竜川橋(鉄橋)が架けられてようやく安定しました。

ここから橋が架かっていたそうです。

天竜川
 天竜川橋は、私の地元にある橋と同時期の架橋で、似たようなトラス橋でした。
こちらが天竜川橋

歩道は新天竜川橋にありました。
 天竜川橋には歩道がなかったので、少し上流に架けられた新天竜川橋で渡河します。
天竜川橋

名古屋方面標識
片側4車線の立派な橋です。
 橋の長さは1km近くありまして、歩いて渡ると結構な時間かかりました。
 しかし川を渡る風が心地よかったです。

天竜川標識

テントウムシ
 ようやく渡って磐田市に入りました。

旧長森村
 磐田市に入りました。
 旧長森村には、江戸時代初期から「長森こうやく」という薬が売られていて有名だったそうです。
 あかぎれや切り傷に効能があったそうです。
 作り方は秘伝で、妻にすら教えなかったそうです。

明治天皇御座所碑

若宮神社
 若宮神社鳥居前を通過します。
 明治7年に近隣28カ所村の神社を合祀して建立された神社だそうです。
 道は進んで県道261号線に合流しました。

県道に出ました。

小さな祠が
 街道沿いに小さな祠がありました。
 宮之一色秋葉山常夜灯です。
 文政11年(1828年)の常夜灯で、風よけに周りを祠で囲んでいるのですが、その彫り物がすばらしい!
 しばらく相方さんと見ておりました。
 日差しが強くて暑くなってきました。
 露出している肌がじりじりと焼かれていきます・・・

磐田市はヤマハのまち
ジュビロ磐田の本拠地です。

うまそうですな。
 途中でうまそうなサンドイッチやさんを見つけて入ってみました。
 歩きながら食べましたがうまかったです。

来た、見た、買った

くろん坊さま
 くろん坊さまの祠がありました。
 なんでも旅のインド人僧が殺されてしまったため、里人が手厚く葬ったそうです。
なんか怖い話ですね・・・

江戸時代の中泉村

トンボのマンホール

古い町屋
 磐田駅近くにやって来ました。
 この辺りは中泉村、徳川家康が鷹狩りの際使用した御殿があり、茶湯に使った泉があったそうです。

JR磐田駅

駅前の大楠
樹齢700年
 磐田駅前に大きな楠がありました。
 あんまり大きすぎてちょっと歩いて離れて撮影しました。
 樹齢700年だそうです。
 東海道はここで直角に折れて南北直線道路になりますが、これは奈良時代に国府が置かれた時の町割がそのまま残っているからだそうです。

ジュビロのお膝元

府八幡宮
 奈良時代の街道は直線的に引かれるのが常だったのです。
 北海道の町割に通じるものがありますね。地形関係なく直線引いてますからね・・・

立派な楼門
県文化財

本殿
二代将軍秀忠公の娘、
東福門院が寄進したものです。

ジュビロの消火栓
 さて街道沿いに府八幡宮がありました。 遠江国府の守護として勧請された神社です。
鎮守の森がさわやかに陰をつくっていて、涼しかったです。少し生き返りました。
 この府八幡宮の西向かいが遠江国分寺の跡です。
 この辺りは少し丘になっていまして、ここからゆるい下り坂になります。
下りきったところに加茂川交差点があり、ここが見附宿西木戸跡になります。
 見附宿は奈良時代から続く町で遠江国府が置かれ、鎌倉時代には国衙と守護所も置かれました。
 ここ見附と先ほど通過した中泉村は昭和15年に合併して磐田町となりました。

東海道53次
見附
天竜川の船渡しを描いてます。
 見附宿は途中で右に折れますが、ここが東海道の脇道である姫街道との追分になります。
木戸跡のモニュメント

脇本陣
大三河屋門
薬医門形式です。
 見附には有名な見附学校校舎があります。
 明治8年に建てられた国内最古の木造擬洋風校舎です。
 名古屋から宮大工を招いて建てたそうです。
 明治16年に三階部分を増築して現在の形になりました。

見附学校

土台の石垣は
横須賀城から運ばれたものです。
 この建物もいろんな使われ方をしたそうで、よく残ったなあ~というのが正直なところ。
 しかし町のシンボルになったのでもう大丈夫でしょうね。

昔はノートがなく、
黒板で練習したそうです。
絵を描いてみました。

昔の教科書

見附学校からの眺め
 見附学校を出発しました。
 靴が合わないのか足が痛くなってきましたががんばって歩きます。
 見附天神名物という看板を発見!
 呆れる相方さんを無視して店内に。

名物とな?!

なんかうまそうだよ!
 赤福に似ていますが甘さ控え目のため、何個でもいけるうまさです。
 帰宅してからいただいたのですが、また買いに行きたいです。

粟餅、うまかったです

愛宕坂と愛宕神社の山
 見附宿の東外れまできました。
 木戸跡を過ぎると愛宕神社への石段があり、その横にかなり急な坂が・・・

こんな登り坂でした
きつかった・・・

秋葉山常夜灯
 相方さんがみるみる遅れていきました
私も結構きつくて全然余裕がありませんでした。日陰だったのが不幸中の幸いでしたが・・・
東海道をゆく 続く
2018.8.12作成
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