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![]() 草薙駅にて |
翌朝もホテルの朝飯を平らげまして、7:25に出発。藤枝駅から東海道本線に乗りまして草薙駅を目指します。 8:05草薙駅に到着。街道旅を再開します。 草薙駅って日本武尊伝説所縁の場所なんですよね・・・ |
![]() 草薙駅跨線橋から 左の高架は新幹線 |
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![]() 草薙駅裏には 大きな静岡銀行の建物が |
今は静岡市の副都心みたいな感じで駅前の再開発が進んでました。 | ![]() もうひまわり咲いてた |
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![]() 草薙神社大鳥居 |
日本武尊が祭神の草薙神社大鳥居がありました。 ここで日本武尊は賊に襲われて火を放たれましたが、剣で草を薙いで難を逃れたそうです。 その時の剣が草薙剣(くさなぎのつるぎ)で、三種の神器の一つです。 |
![]() 古い石碑 |
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![]() 草薙の一里塚跡 |
日本橋まで43里(172km)、草薙の一里塚跡まできました。 清水銀行草薙支店の一角にあります。 |
![]() なぜか信楽焼のたぬきも 安置されていました。 |
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![]() 上原鎮守十七夜宮 現在のお堂は昭和7年再建 |
上原鎮守十七夜宮まできました。ここは天正15年(1582年)に、徳川家康と江尻城主穴山梅雪が会見し、梅雪は徳川家に下りました。 これが引き金となり、武田家は滅亡しました。 |
![]() 宗丹池解説板 |
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![]() 久能寺観音道道標 安永7年(1778年)のもの 久能寺への道標です。 |
宮の脇には宗丹池がありました。 ここは昭和2年に狐ヶ崎遊園地として開園し、その後狐ヶ崎ヤングランドとなってジェットコースターなどを持つ遊園地となりましたが、平成5年に閉鎖されたそうです。 静岡の民謡 「ちゃっきり節」 はこの遊園地開園時につくられた、静岡鉄道のコマーシャルソングだったそうです。 |
![]() 追分踏切にて 複々線のように見えますが、 奥がJR東海、手前が静岡鉄道です。 |
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![]() バックのロボットは何ロボなんでしょうか? |
創業元禄8年(1695年)の追分羊羹です。 300年以上、江尻の名物として旅人に愛されてきました。 |
![]() 追分羊羹 |
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![]() 追分羊羹 |
先日なくなったさくらももこさんも愛した地元の銘菓でございます。 お土産にいくつか買いましたよ~ |
![]() 追分羊羹 小学校一年生のさくらももこさんが 小遣いはたいて買ったそうです。 |
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![]() 追分道標 |
追分羊羹の名前のもとになった追分道標です。 ここから清水湊への街道が分岐していました。 |
![]() 清水湊への街道 |
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![]() 江尻宿西木戸跡 |
江尻宿に入りました。 久能道との分岐を左に折れると巴川があります。 ここに稚児橋という橋が架かっているのですが、この橋の渡り初めの際にカッパの稚児が現れてさっさと渡ってしまったという伝説があるそうです。 |
![]() 稚児橋 かっぱにちなむ伝説がある橋です。 |
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![]() 巴川 |
巴川の右手の木立が江尻城跡です。 永禄11年(1568年)に駿河に侵攻した武田家が築いた平城で、東海道と水運を睨んだ場所に築かれました。 当初、山県昌景が城主となりましたが、のち穴山梅雪が城主となりました。 慶長6年(1601年)には廃城になったようです。 |
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![]() 江尻城跡 |
現在、河川工事で巴川も直線になっており、蛇行していたころの雰囲気は残っていません。 跡地も小学校になっているので、城跡とは気がつかないです。 |
![]() 江尻城復元図 |
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![]() 東海道江尻宿 昭和50年台くらいまでは 賑やかであったであろう商店街でした。 |
すっかり寂れた商店街がありましたが、これが江尻宿です。 どこの地方都市も、中心地が寂れてますね。 かつての江尻宿は本陣3軒、脇本陣3軒、旅籠が50軒あったそうです。 |
![]() 清水駅前には巨大なマンションが |
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![]() 東海道53次 江尻宿 三保の松原と清水湊を描いてます |
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![]() 古いお家が残ってました |
国道1号線を横断すると、旧街道は静かな佇まいでした。 やがて街道は国道1号線と合流しました。 |
![]() 細井の松原跡 国道1号線との合流点です。 |
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![]() とにかく歩く 東京まで175km 沼津まで44km |
時間が早かったこともあり、特に見所がなかった江尻宿を後にしました。 | ![]() 郵便局だったらしい建物 |
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![]() 横砂踏切 |
国道1号線をひたすら歩きます。 途中のコンビニで小休止しつつ、興津宿近くまでやって来ました。 ここで国道1号線を離れて踏切を渡り、国道1号線のバイパス高架をくぐったところが興津宿です。 |
![]() 坐漁荘 |
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![]() 玄関が網代天井 |
興津宿には明治に入って鉄道駅ができたこともあって、別荘が置かれました。 中でも元老西園寺公望公が住んだ坐漁荘が有名でした。 西園寺公は1年のほとんどをここで暮らしたそうです。 |
![]() 粋な床の間です。 |
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![]() 潜り戸もなかなか |
現在、建物は明治村に移築されており、いま興津にあるのは復元されたものなんだそうです。 今は屋敷の裏を1号線バイパスが通っていますが、かつては屋敷から三保の松原が望めたそうです。 |
![]() 床にも意匠が |
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![]() 立派な床の間で |
坐漁荘を出ると清見寺がありました。 奈良時代創建と伝わります。 室町幕府6代将軍足利義教が富士山見物の際に宿泊したり、徳川家康がここの住職であった太原雪斉に師事していたため訪れていたり、武田家の駿河侵攻の際に今川氏真が本陣を置いたり、なかなかの歴史があるお寺です。 |
![]() 清見寺 |
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![]() 宮様まんぢうのお店 |
興津宿の名物は 宮様まんじゅう。 大正天皇がご幼少の頃、興津滞在時に献上したまんじゅうなんだそうです。 |
![]() これが宮様まんぢう 酒まんじゅうです。 |
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![]() 興津宿東本陣跡 |
早いお昼ご飯にしようかと思ったのですが、お店がない。 そのまま先に進むことにしました。 |
![]() 古い町屋がちらほら残ってました。 |
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![]() 東海道53次 興津 興津川の渡しを描いてます。 ここは徒歩渡りでした。 |
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![]() 興津一里塚跡 日本橋まで41里 (124km) |
興津の町の外れに題目碑がありました。 ここから山への街道は身延山への道でした。 身延山といえば日蓮宗の総本山久遠寺があるところです。 |
![]() 題目碑 身延山への街道の追分 身延まで12km |
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![]() 興津川橋 |
興津を出まして興津川を渡ります。 ここからいよいよ薩埵峠(さったとうげ)越えに挑みます。 |
![]() 東海道線と併走です。 |
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ここからは東海道の難所の一つであった薩埵峠越えになります。 ルートはいくつかありますが、大名行列も通った上道でいくことにしました。 |
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![]() 東海道本線をくぐります。 |
まずは小さな山を北側に迂回していきます。 なんか全然街道らしくなくて道に迷いそうな感じのところでした。 |
![]() こんな感じ |
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![]() 大丈夫かな? |
時々現れる道標と常夜灯だけが頼りです。 | ![]() 常夜灯 文政2年(1819年)建立 |
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![]() 昔の薩埵峠 かなり険しそう |
案内図のとおり歩いて行くと、墓地にぶつかります。 一瞬、道がなくなったと思って焦りましたが、奥に階段がありました。 「えー?ここなん?」 恐る恐る相方さんと墓地を横切って行ったのでした・・・ |
![]() えー?ここ入っていくの??? |
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東海道をゆく 続く | |||
2018.9.24作成 | |||
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