享保17年の地蔵尊
 阪和自動車道の高架を過ぎると、野ざらしのお地蔵さんがありました。
 このお地蔵さんは、享保17年(1732年)のものです。
 さらに南下すると、中茶屋自治会館の前に、天明5年(1785年)の法界地蔵が祀られたお堂があります。
 さらに南に行くと伊勢灯籠、その先の三叉路に道標が立っていました。

法界地蔵尊

伊勢灯籠
太神宮夜燈
安永2年(1773年)9月吉日

三叉路
左が滝谷不動尊への道
右が西高野街道
 道標には高野への道と、滝谷不動尊への案内が刻まれていました。
 道はやがて府道36号線と国道310号線を横切ります。

右 かうや(高野) 大ミ祢(大峰)
左 たきたに(滝谷) 金剛山

伊勢灯籠
太神宮
南伊勢講中
文化9年(1812年)3月
 また伊勢灯籠がありました。
前には木下家長屋門がありました。

木下家長屋門

道の左側が大阪狭山市
 やがて街道の右手(西側)が開けて畠になりました。
 ここまで街道は堺市の中区と東区の境目を通っていたのですが、この辺りから街道東側が大阪狭山市に入ります。
 古くは街道の東側が河内国、西側が和泉国でした。
 道のマンホールも大阪狭山市になりました。

大阪狭山市のマンホール

十一里の里程石
是より高野山女人堂江十一里
安政四年二月
発願主 茱萸木村 小左衛門 五兵衛
施主 岩室村 中林喜兵衛
 道はゆるやかに登っていきます。
 やがて三叉路に出ますが、その角に十一里の里程石が立っていました。
 ここからしばらく進むと下りになり、やがて府道34号線に出ます。
 この角のコンビニで小休憩を取りました。
 

三叉路

道標

右 あまの山 二里
左 かうや山 十里
天保十三年(1842年)三月建立
 府道34号線を歩道橋で渡ると道は狭くなり、再び登りになります。
 ほどなく道は三叉路になり、その角に道標が立っていました。

この辺りの街道は狭いのです。

街道がニュータウンの道になり、
展望が開けてきました。
右手に新池があります。
この坂は尾張坂と呼ばれていますが、
狭山池の改修工事に来た
「尾張衆」に由来しているそうです。
 さて、近くに狭山池があります。
 狭山池は日本最古のダム式ため池とされ、4世紀から7世紀頃に出来ていたそうです。
 古事記、日本書紀にも記録があります。
 1704年の大和川付け替えまで、ここ狭山から大阪市に至るまでの80ヶ村、55,000石を灌漑していました。
 江戸時代には狭山池のほとりに陣屋がありまして、北条家1万1千石の居城でした。
 この北条家は関東の覇者であった北条家の末裔で、北条氏直、その叔父の氏規から続く家系です。

新池

里山の中を抜けていきます。
 おわり坂を下り、狭山池に注ぐ三津屋川を渡ると、里山の中を抜けていくような感じになります。
三津屋地蔵尊

立派な鏝絵です。
 もう一つの新池の近くを通過すると、道は左にカーブして新道に合流します。
 その先の交差点を右折すると、街道はまっすぐ集落の中を抜けていきます。
 この辺りが里石の発起人である小左衛門さんと五兵衛さんの村、茱萸木(くみのき)村です。
 

太神宮伊勢灯籠
太神宮
施主當村中
明和七年(1770年)三月

街道はまっすぐ延びます
 この辺りの街道はまっすぐ伸びていました。
 もう間もなく河内長野市に入ろうかというところに、十里の里程石がありました。
 高野山まであと40km!いよいよ日が傾いてきまして、寒くなって参りました。


是より高野山女人堂江十里
 安政四年三月
 発起人 茱萸木村 小左衛門
              五兵衛
 施主 茱萸木村中

ベンガラ塗り?

西除川
 坂を下って西除川を渡っていよいよ河内長野市に入りました。
 西除川からは上り坂が続きます。地蔵堂があって道標が立っていました。
 妙見山は堺市南区富蔵にある日蓮宗のお寺です。
 この地蔵堂から道を右にとって急な坂(錦坂)を登ります。

錦坂地蔵堂
右 上神谷(にわだに)妙見山 27丁
 右 長野 よつかいど
大正二年九月吉日

太神宮おかげ灯籠
天保二年九月
 この辺りの街道は台地の尾根筋を走ってます。
 天保二年(1831年)の灯籠があります。
 やがて街道は下りに入ります。

尾根筋を走る西高野街道

中高野街道との合流点
我々は向かって左側から来ました。
この道を右に行くと中高野街道を通って
平野に至ります。
 中高野街道との追分に到着しました。
 灯籠と道標があります。
 道標には
 右は平野道
 左は堺大坂道
 南かうや
とあります。
 常夜灯は明和三年(1766年)のものです。

街道は続きます。

 道は急な下り(南坂)になり、楠小学校横を過ぎて西友の裏を通ります。
 やがて晴明塚の前にやってきました。
 もともと「清明」と彫られていたそうですが、昭和の初めに「晴明」と彫り直したそうです。
 言われてみれば「晴」の字、特に「日」の部分のバランスが悪いような気がします。

晴明塚

寒くなって参りました
 日のあるうちはよかったのですが、だいぶ日が傾いてきました。
 さすがに1月は寒いです。先を急ぎます。

河内長野市のマンホール

瓦やさん
街道を緩やかに下って、大阪外環状線(国道170号線)の高架下をくぐります。
立派なお屋敷

原町 旧阿弥陀寺石造物群
寛永十一年(1634年)に
原町の庄屋さんだった俵屋さんが
施主として作られた13仏板碑他が
祀られています
 20世紀初頭に廃寺になった阿弥陀寺ゆかりのお堂を通過します。
 その斜め前には太神宮常夜灯が置かれていました。
 

明和五年(1768年)建立の常夜灯

 街道をちょっとそれますが、保育園横に太神宮常夜灯と膳所藩代官所の碑が建ってます。
 保育園の角を左に曲がったところに、九里石が移築されていました。

是より高野山女人堂江 九里

その横の道標には
右 中本山極楽寺
左 さかい四里 大坂江 七里
とあります。

子育地蔵尊
九里石は本来この辺りにあったそうです
 16:00前になっていよいよ寒くなってきました。
 街道に戻って河内長野市街を目指します。
 地蔵尊がありました。九里石はもともとこの辺りにあったようです。
 この地蔵を過ぎると街道は右にカーブして割坂と言われる坂を下ってそのまま河内長野商店街に入り、16:10に河内長野駅前に到着しました。この日は20km歩きました。が、ここでギブアップ(笑)
 続きは後日ということで(爆笑)

寒い~

高野線河内長野駅
西高野街道をゆく つづく
2020.5.7作成
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