橋本町道路元標
大正時代、各市町村の中心に置かれました。
 ゴールデンウィークも終わりまして、初夏の好天が続いていた週末。
 あまり暑くならないうちに、高野山までたどり着いておこうってことで、再び高野街道の旅に出発です。
 紀ノ川を橋本橋で渡ります。
 橋本の地名は、応仁上人が天正15年(1587年)に紀ノ川に架けた橋に由来しています。
 その橋は三年後に流失し、その後は渡し船に頼っていたそうです。

橋本橋

橋本橋から紀ノ川下流を見る
 気持ちよい五月晴れの下、紀ノ川を渡ります。
 国道371号線を離れて旧道に入ると常夜灯がありました。
 ここはかつて三件茶屋と呼ばれた場所で、東家からの渡しの船着き場でした。

三件茶屋常夜灯
宝暦二年(1752年)建立

少し離れてもう一基
 かつては無料かつ24時間営業の渡しがあったそうで、夜間はこの常夜灯に灯がともり、灯台の役目を果たしていたそうです。
 無料の渡しは元禄10年(1697年)に始まり、その経費は八割が高野山、二割を地元が負担していました。
 また、大坂の伊川屋浄栄が銀20貫目を寄進したりと浄財などもあって、明治になるまで無料の渡しは続いたそうです。

第一地蔵

街道の風景
 高野山参詣者の安全を祈念した第一地蔵尊を過ぎ、街道は緩い上り坂になります。
民家と街道

常夜灯
文政13年(1830年)のもの
 高野領11ヶ村の大庄屋だった萱野家の脇に常夜灯がありました。
 橋本高野橋の下をくぐっていくと、左側に清水不動尊がありました。

さらに街道を進みます。

清水不動尊
弘法大師が鎌を借りて彫ったという
不動尊が祀られています。

福成就寺山門
本堂は寛永20年(1643年)再建
 さらに街道を進むと、右側に福成就寺がありました。
 境内には船越喜右衛門戸谷新右ヱ門の顕彰碑があります。
 喜右エ門は学文路生まれの船頭で、あだ名は「滅法喜右エ門」
 嘉永5年(1852年)に紀ノ川で洪水が起きて丁田の村人が大師堂に逃れた際、学文路から舟を出して村人を救出したそうです。
 その勇敢な行動は紀州藩公や高野山から賞賛され、紀州公から「船越」の姓が与えられたそうです。
 戸谷新右ヱ門も義人です。
 江戸時代に紀ノ川南岸(九度山町、高野町、旧花園村、旧美里町、旧桃山町あたり)は高野山領だったんですが、ここの年貢の取り立てが非常に厳しかったそうです。
 寛文9年(1669年)に枡統一令で新京桝が全国で用いられることになったのですが、高野山領では2割も大きい讃岐枡松ヤニで肉盛りしたものを使って(のちにさらに大きな別製の枡を使わせたそうな)年貢を取り立てていたそうです。
 で、庄屋の戸谷新衛門は高野山に年貢の軽減を懇願するも無視され、享保5年(1720年)に幕府に直訴を敢行。
 これが通ったのですが、新右ヱ門は三年の入牢。さらにふるさとに戻った新右ヱ門は高野山に捕らえられ、生きながら石籠詰の極刑、さらには財産没収となったそうです。
 時に享保7年(1722年)のことでした。

天満神社の大木
 街道は清水集落を過ぎて大きく左にカーブします。
 さらに突き当たりを右に折れて進むと、天満神社を通過して国道370号線に合流しました。

天満神社の鳥居

第二地蔵尊
 第二地蔵尊を過ぎて国道370号線を歩きます。
 学文路までやってきました。
 南海電鉄高野線に「学文路駅」てのがありまして、入場券が合格祈願のお守りで販売されています。

学文路
僧に仕えた「禿」が由来とも言われてます。

学文路郵便局への道
 国道を歩いてしまって高野街道を外れてました。(今頃気がついた)
 で、三里石の前を通らず、写真もありません。(しもたー)
 この時は学文路郵便局の方に入って行く道から高野街道に戻ってます。

緑泥片岩(いわゆる紀州の青石)の石垣
和歌山城にもあります。

郵便局横の道標
右 京 大坂 伊勢
右隣はかめ川と書かれた橋柱?
手前は昭和12年の
学文路郵便局開設記念
 郵便局の前にも道標があり、そこを通過して国道370号線に戻る辻にも道標がありました。
 この時はこの道標を三里石だと思ってました・・・

学文路三叉路標石
宝暦8年(1758年)4月建立
右ハ慈尊院みち是より一里
左ハ高野みち女人堂迄三里

高野線の花電車
 国道を横切って少し坂を登ると、南海電鉄高野線の踏切がありました。
 いいタイミングで電車がやって来ました。
 踏切を越えると一気に傾斜が厳しくなりまして、登りに弱い相方さんがみるみるうちに遅れ出しました・・・

急な登りの始まりです。

西光寺
刈萱堂とも呼ばれています。
刈萱道心ゆかりのお寺です。
 この辺りはかつて宿場として繁栄していたそうです。
 玉屋という宿があったそうで、刈萱道心ゆかりなんだそうです。
 道は急な登りが続きます。

標高が上がってきました。
和泉山脈が見えます。

恵光院道標
高野山女人堂迄九拾丁
宿坊恵光院
 三叉路の辻に道標がありました。
 恵光院は島津家ゆかりの寺院だそうです。 街道は橋本市を出て九度山町に入ります。
 展望が北に開けていい感じです。

和泉山脈

登ります

第三地蔵
 第三地蔵を過ぎ、広々とした農道を横切ります。
 ため池に向かって急坂を上ります。
 また相方さんが遅れていきます・・・

ため池に向かっての上り坂

小さな洞
石灯籠には
嘉永7年(1854年)三月
施主 中西喜太夫
 ようやく河根峠までやって来ました。というか、峠があるって知りませんでした。
 今までの登りを帳消しにする、ものすごい下り坂が我々を待ち構えていました・・・

第四地蔵

膝が抜けそう!
 ちょっと転ぶと下まで転がっていきそうな下り坂です。
 相方さんはジグザグに坂を下っていきます。
 というか、今までの登りは何だったんだって感じです。
 街道は右にカーブして河根集落に入ります。

河根集落に入りました。

河根丹生神社
 応和二年(962年)開基の河根丹生神社です。
 永正14年(1517年)の棟札が残っているそうです。すごい。

九度山町のマンホール
柿です。

本陣 中屋旅館
 ここ河根(かね)は宿場でして、紀伊國名所図会には、「河根村(この処谷間にて、薬研の底のごとし、旅舎多し。これより神谷まで一里)」と紹介されています。
 旅館、茶屋が軒を連ね、高野参詣を済ませた旅人が精進落としの宴会を開いて賑わったそうです。

丸に中の軒瓦が見事です。

二里石
是より高野山女人堂江 二里
安政4年9月
 河根宿の外れ、丹生川の縁に二里石が立っていました。
 その横には千石橋が架かっています。
 寛永年間、明石藩主松平孫四郎(松平(戸田)光重か)が幕府の使者として高野山に赴いた際、この橋が流失していて期日に間に合わなかったことがあり、寛永11年(1634年)に松平孫四郎が擬宝珠10個を寄進。また幕府も修繕費として1000石を支給して7年ごとにこの橋を架け替えさせたことから、千石橋と名前がついたそうです。

千石橋
高野街道をゆく 続く
2020.7.11作成
2019年ツーレポトップへ
Home