長岡京市のマンホール
 一文橋を越えると、そこは長岡京市。
延暦3年(784年)に都が置かれたことから、長岡京市の名前が付きました。
元々は乙訓郡長岡と呼ばれていまして、平安時代には菅原道真の所領だったそうで、その縁から長岡天満宮が営まれました。
 一文橋を過ぎるとしばらく堤防下を歩きます。

府道67号線を外れたところ。
 馬場1丁目の交差点を過ぎると、西国街道は府道67号を外れて脇道に入ります。
 この辺りの西国街道は、きれいに舗装されていました。

新神足村道路元標
この辺りは明治22年に成立した
新神足村の中心部でした。

町屋も残ってました。
 神足を過ぎると、府道211号線にぶつかります。
 ここを左折して少し寄り道をします。
 府道211号線はすぐに東海道本線の低いガードをくぐります。

神足公民館前の駅標
JR長岡京駅は平成7年まで
神足駅を名乗ってました。

勝龍寺城の解説板
 ガード下を過ぎてしばらく歩いて右折すると、住宅街の奥に公園が見えてきます。
 ここが勝龍寺城跡です。

勝龍寺城の土塁

沼田丸跡の解説板
 勝龍寺城が文献に登場するのは、康正3年(1457年)のこと。
 その後の永禄11年(1568年)、織田勢が城を攻め落とし、元亀2年(1571年)に細川藤孝が城主となります。

沼田丸跡は公園になってました。

沼田丸の井戸解説板
 その後、本能寺の変では明智勢が占拠。ここを拠点として天王山の合戦に臨んで敗れています。
 豊臣家の時代に城は荒廃。江戸時代に一時長岡藩が立藩されますが、慶安2年(1649年)に藩主永井家が高槻に転封となり、城は廃城となりました。

井戸跡

城郭風の展示館
 勝龍寺城は小畑川と犬川の合流点に築かれており、また西国街道と久我畷が交差する交通の要衝でした。
解説板

本丸跡入口
 細川忠興はこの城でガラシャと婚礼したと言われています。
解説板

勝龍寺城縄張り
 お城に別れを告げて西国街道に戻ります。
お城に別れを告げます。

右 山崎 左 よど
 道標の交差点まで戻ってきました。
 西国街道はすぐに府道を離れて脇道に入ります。

伝 与市兵衛の墓
ほんとは違うそうです

中野家住宅
(國有形文化財)
 京都近郊農家の佇まいを伝える、中野家住宅の前を通過しました。
解説板

中野家住宅の向かいに
道標がありました。
(右面)右 やなぎ谷
左 よど
(左面)すぐ(まっすぐ)やなぎ谷
右 よど
左 山さき
 街道が再び府道67号線と合流するところは大きな交差点になっていて、頭上には京都縦貫道の高架がそびえていました。
 ここは丹波街道との分岐にあたり、交通の要衝でした。
 現在はすぐ南に大山崎JCTがあり、相変わらず交通の要衝です。

調子八角の道標(新)

小川橋
 高架をくぐってしばらく歩くと、小川橋という橋を渡ります。
 いよいよ京都府最後の町、大山崎町に入ります。

京都縦貫道の高架

大山崎町のマンホール
 大山崎町は、桂川、宇治川、木津川の合流点に近く、西国街道も通り、京都への西の関門として交通の要衝でした。
 かの有名な天王山の合戦は、ここ大山崎町で繰り広げられました。
 街道は名神高速道路の高架下をくぐって大山崎町の中心部へと入っていきます。

大山崎の東黒門跡解説板
 かつての大山崎には高槻屋などの大きな旅籠があり、宿場町でした。
 町の入口には黒門が置かれていました。
 天王山の戦いの時は、ここ東黒門に高山右近が陣取り、門を開けるように求めた明智勢の先鋒と小競り合いになり、合戦の火ぶたが切られたそうです。

東黒門跡

観音寺鳥居
 東海道本線と阪急京都本線で分断された観音寺の鳥居がありました。
 さらに歩くと阪急京都本線の高架下をくぐって、阪急大山崎駅、もう少し進んでJR山崎駅、離宮八幡宮がありました。
 貞観元年に宇佐神宮から分霊された神社だそうです。

離宮八幡宮

大阪府に入ります。
 神社を過ぎると枡形跡らしいクランクがあり、ここを抜けると大阪府(摂津国)でした。
島本町です。

是より東、山城国
 いよいよ大阪府です。
 この辺りは良質のわき水に恵まれておりまして、サントリーの工場があります。

サントリー山崎工場
 サントリー山崎工場前を通過して、水無瀬川を渡ります。
 あじさいの名所で知られる、楊谷寺への四つ辻まで来ました。

柳谷観世菩薩道道標

島本町内の道標
 さらに島本町内を進むと、JR島本駅の東側に公園がありました。
街道の風情がありますね。

櫻井駅跡
 この公園が櫻井駅の跡だそうです。駅と言っても鉄道駅ではなく、駅逓の駅跡です。
 なんでも湊川に向かう楠木正成が、ここから長男正行を河内に帰らせた場所なんだとか。
 楠公父子訣別の碑が建てられていました。

高槻市のマンホール
 しばらく歩くと島本町はおしまい。
 東海道本線のガード下をくぐって高槻市に入りました。
 ガード下をくぐると人家がまばらになり、田んぼの向こうに東海道本線を見ながら歩くことになります。
 やがて街道は直線になります。
 単調な住宅街の道をてくてく歩き、JR高槻駅をゴールとしました。

なんか古そうな碑がありました。
船本松太郎という相撲取りを顕彰するために門弟たちが立てたそうで、江戸時代末期の話しだとか。

この日の行程
西国街道をゆく 続く
2020.7.4作成
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