千代田駅
 2022年2月、中高野街道を歩くため、南海電鉄高野線の千代田駅にやって来ました。
 当日はあいにくの曇り空で、結構寒かったです。
 中高野街道は、大阪市平野から河内長野までの街道で、河内長野で西高野街道や東高野街道と合流し、紀見峠を越えて橋本、高野山を目指す街道です。
 今回は河内長野側から歩いて行きます。

西高野街道との分岐点
 千代田駅から西高野街道を北に歩き、中高野街道との分岐までやって来ました。
 写真の左側は西高野街道で堺への道、右側が中高野街道で平野への道になります。

改源
 関西ローカルかもしれませんが、「風邪引いてまんねん」と風神がぼやくCMで有名?な「改源」の会社が街道沿いにありました。
 こんなところにあるとは知りませんでした。

街道風景

富田林市のマンホール
 南海電鉄滝谷駅付近は富田林市になります。この辺りは市境が入り組んでますねえ。
 滝谷駅を過ぎた辺りで、宅地化で一部街道が消滅している場所がありまして、住宅地の中を歩きます。
 住宅地を抜けると田んぼの中を歩き、やがて急坂を登ります。

安楽寺
 集落の歩いて行くと安楽寺があり、間もなく大阪狭山市に入ります。
 ここから急に道が広くなりました。

大阪狭山市
」大阪狭山市のマンホール  天下泰平を祈願して安永八年(1779年)にお経を収めたという石碑が立っていました。
 街道は狭山神社近くを通過します。
 狭山神社は創建不明ですが、狭山池ができる前からあったそうで、延喜式では「大社」として掲載されてます。
 社殿は室町時代再建だそうです。

 伊勢神宮の常夜灯がありました。
 街道はやがて南海電鉄金剛駅前のロータリーを横切ります。

街道の解説板

高野線
極楽橋行きの急行
 街道はイオンの横を通って高野線を跨ぎます。
狭山池1400年記念のマンホール
 大阪狭山市駅横で再び高野線を跨ぐと、街道らしく道が整備されていました。
 大阪狭山市駅は、かつて「狭山遊園」という駅で、狭山池近くに小さな遊園地がありました。
 遊園地の前は、狭山藩の陣屋があったそうで、かつての関東の雄、北条家が領主でした。(1万石)

壺井本宅跡
どうも狭山藩医のお宅だったらしいのですが・・・

街道解説板

子安地蔵尊石碑
 狭山半田郵便局前の交差点に、子安地蔵尊と書かれた石碑がありました。
 府道198号線を越えると、東除川があり、狭山橋を渡ります。

狭山橋の石碑

立派なお屋敷前を通ります。
 しばらく行くと、狭山池がありました。
 日本最古のため池と言われておりまして、できた時期は四世紀から七世紀と言われ、枕草子にも記事があるそうです。

狭山池
「ねじりまんぽ」で積まれた煉瓦のトンネル  狭山池を下ると下高野街道になるので、狭山半田郵便局前まで戻り、中高野街道歩きを再開します。
 高野線の築堤下に、琵琶湖疎水でも見た、「ねじりまんぽ」で積まれた煉瓦のトンネルを見ました。
 河内長野までの開通が明治31年(1898年)なので、その頃のトンネルです。
 下を川が流れてます。

常夜灯
 この辺りは大きな河川がないので、たくさんのため池が作られて今でも残っています。
 東野公民館前にも常夜灯が残っていました。
 府道と合流してしばらく歩くと、ファミマの前に石鳥居があり、菅生天満宮の石碑がありました。
 この辺りで堺市に入ります。

横に
すぐ 三日市 高野
と刻まれています。

船渡池
 府道とつかず離れず街道は続きますが、ついに府道と合流してしまいました・・・
 歩道がないのに交通量が多くて、けっこう怖いです。
 まあ、普段こんなところを歩く人はいないでしょうけど・・・

堺市のマンホール

梵字が入った石碑
風化が激しくて読み取れず
 阪和自動車道をくぐって北へと進みます。
 かつての真福寺村の集落を抜けて行きます。

美原町(現:堺市美原区)のマンホール

櫟本神社鳥居
 次は丹南村の集落を歩きます。 
 ここには松川長右衛門碑がありました。
 この日は大正5年に建てられた碑です。
 長右衛門は丹南藩高木家の庄屋でして、狭山池の改修に私財を投入して尽力した結果、丹南村は特別に用水の分配を受けることになり、後々干ばつの被害をあまり受けなかったといいます。
 亡くなったのは元禄10年で、江戸時代前期ですが、大正になってなおその功績が称えられたのはすごいことですねえ。

松川長右衛門碑

竹内街道との四つ辻
 竹内街道との辻までやって来ました。
 懐かしいですね。
 我々は平野を目指します。

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中高野街道 続く
2024.1.28作成
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