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暗峠越奈良街道をてくてく歩きます。 役行者を祀った行者堂と、大峰山登山33度供養塔がありました。 |
![]() 御厨行者堂 |
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![]() 道標 |
街道の曲がり角に道標が残っていましまた。 街道は府道702号線をまたぎ、また合流して離れます。 |
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![]() 放出停車場まで三十丁(約3km) 大阪高麗橋元標 二里二十丁 |
街道は長瀬川を渡りますが、橋のたもとに道標がありました。 ゴールまであと八`ちょっとのようです。 |
![]() 枚岡まで一里三十三丁 |
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![]() 解説板 |
この辺りは大和川付け替えの後で新田開発が行われ、新喜多(しぎた)新田と呼ばれたようです。 旧河床に作られた用水路は、長瀬川と呼ばれ、水運などに活用されました。 |
![]() 長瀬川 |
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![]() 寛延二年(1749年)の西岸地蔵尊 |
長瀬川西岸に祀られた、その名も西岸地蔵尊です。 大和川付け替えの45年後に建立されたそうです。 |
![]() 解説板 |
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![]() 高井田地蔵尊 |
旧大和川の自然堤防沿いに建てられた高井田地蔵を通過しました。 おおさか東線の高架下をくぐっていきます。 近鉄布施駅にもほど近いところに、法明寺道案内地蔵がありました。 この近くに、文保2年(1318年)融通大念仏宗(ゆうづうだいねんぶつしゅう)の中興の祖、法明上人(ほうみょうしょうにん)の開基となる法明寺があります。 |
![]() 法明寺道案内地蔵 |
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![]() ドギーマン本社 |
街道は府道と合流し、大阪メトロ千日前線の上を歩きます。 有名企業の本社がありました。 |
![]() コクヨ本社 |
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![]() 麻雀メーカー |
そう言えば、もう大阪市内までやって来ましたね。 平野川分水路を渡ります。 |
![]() 平野川分水路 |
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府道から旧道に外れる場所に、道標がありました。 文化3年(1806年)のものです。 |
![]() 左 奈ら いせ |
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![]() 熊野大神宮 |
この辺りだけタイムスリップしたかのような、街道の風情が残っていました。 | ![]() 町屋 |
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てくてく歩きます。 | ![]() |
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![]() 昔懐かしい仁丹の看板 |
いい感じです。 街道は平野川を越えて国道308号線に合流。 大阪環状線玉造駅北側をくぐって大阪女学院大学前を通ります。 |
![]() 猫ものんびり |
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![]() 大学前から南側を見る。 下り坂になっているのがわかりますか? |
ここでちょっと寄り道。 再び国道308号線を越えて南側に向かいます。 大坂城の総構である空堀跡を通って真田丸の跡に行きます。 |
![]() 真田丸 |
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![]() 解説板 |
真田丸は大阪冬の陣の時、大坂城と台地続きだった南側の守りを固めるため、真田幸村が築いて立てこもった出丸です。 | ||
![]() 真田丸から大坂城側を見る。 |
訪れるまでは大坂城に付随した出丸だと思っていたのですが、大坂城総構との間には結構広い谷があり、出丸というよりは出城といったところです。 幸村の狙い通り、徳川方の攻撃を真田丸に誘引することに成功しています。 |
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![]() 玉造稲荷神社分社にあった なら いせへの道標 |
玉造稲荷神社分社は、「難波講」(旅人に安全で信頼のおける旅を提供する為の組織)発祥の地です。 江戸時代の玉造は伊勢参りの起点として、多くの旅人で賑わいました。 玉造を代表する町人である松屋甚四郎、その手代源助が、「浪花講」を設立しました。「浪花講」とは、現在の旅行社や協定旅館の走りと言われてます。 |
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ビルの間に町屋が残っていました。 空襲に遭うまではこんな街並みが続いて板かと思うと、胸熱ですね。 |
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UHA味覚糖って大阪の会社だったんですねえ。 | ![]() UHA味覚糖大阪工場 |
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![]() 東洋洋傘株式会社 |
そう言えば最近「洋傘」って言わなくなりましたね・・・ 豊臣秀吉が大阪の街を築いた際に整備された下水が、現役で残っているそうです。 すごいなあ。 |
![]() 太閤背割り下水(現役だそうです。) |
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時は春爛漫。 桜が満開でした。 |
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暗峠奈良街道 続く | |||
2024.4.17作成 | |||
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