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![]() 姫路行きの電車 JR西日本岡山支社所属 |
コロナで2年間も中断していた西国街道の旅を再開することにしました。 この日は相生に宿を取りまして、JR相生駅から前回の中断地点、宝殿駅まで移動します。 |
![]() 揖保川を渡ります。 (伏線) |
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![]() 宝殿駅 |
宝殿駅に到着。 貨物列車が停泊していました。 |
![]() 宝殿駅南口 |
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![]() スタートしてすぐに道標 |
「左 石宝殿」の道標を見ながら、西国街道を西に向かいます。 | ![]() こちらが西国街道 |
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![]() 高砂市のマンホール |
街道はすぐに山陽本線をまたいで北側に延びています。 石宝殿がご神体の生石神社(おうしこじんじゃ)の一の鳥居が、西国街道沿いにありました。 生石神社は、天正7年(1579年)、羽柴秀吉の三木合戦の際、神吉城攻めの陣所としての利用を断ったため、焼き討ちされてます。 |
![]() 生石神社 一の鳥居 (おうしこじんじゃ) |
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![]() 立派な庭木ですね |
焼け残った梵鐘は、大谷吉継が陣鐘として使用していましたが、関ヶ原で敗死。鐘は美濃国赤坂の安楽寺に寄進されて現存しているそうです。 | ![]() 是より石野(宝殿)の道標 |
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![]() 水路へと降りる石段 |
街道沿いには小さいながらもいろいろな見所があって楽しませてくれます。 街道は間もなく姫路バイパスの下をくぐります。 |
![]() 曰くありげな石塔が |
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![]() 魚橋東地蔵 |
魚川橋を渡ります。 | ![]() 魚川橋 |
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![]() 西国街道 |
街道を西に歩くと、こじゃれた洋風の建物を発見。 旧魚橋郵便局だそうです。 |
![]() 明治37年に建てられ、 平成2年まで現役だったようです。 |
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![]() 正蓮寺 |
正蓮寺を通過します。 | ![]() お地蔵さん |
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![]() 印南郡役所跡 |
印南郡役所跡を通過しました。 魚橋は結構栄えていたんですねえ。(明治時代の話) |
![]() 西へ西へ |
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![]() 地蔵堂 |
西国街道は国道2号線を横切ります。 しばらく歩くと、「高砂市阿弥陀」というありがたい地名の集落を歩きます。 江戸時代後期の地蔵を祀っているそうです。地蔵堂前の石塔は、享保2年(1717年)のものです。 |
![]() 薬師堂 江戸時代後期の薬師如来像を祀る 天保14年(1843年)改築の本堂 堂前石造は元文2年(1738年) |
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![]() 北向地蔵尊 |
北向地蔵尊を過ぎ、JR神戸線曽根駅近くの高架下に、この辺りにあった道標が集められていました。 左 おう久ん(おうかん:街道)等の文字が刻まれています。 |
![]() JR神戸線高架下の道標群 |
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![]() 高砂市阿弥陀町阿弥陀 |
高砂市阿弥陀町阿弥陀の、ありがたい歩道橋を渡って国道2号線の北側に出ます。 | ||
![]() 軍記物に出てきそうな雰囲気 |
六騎塚がありました。かなり荒廃しています。 時は南北朝の頃、南朝の忠臣である児島高徳の父、範長が、九州から攻め上ってきた足利尊氏の軍勢を迎え撃つも敗れ、最後は主従6騎で阿弥陀宿の辻堂で自害して果てたそうで、その供養のために塚が築かれました。 |
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![]() なんとか保存してもらいたいです。 |
戦前は県史跡だったそうですが、今は指定を外れて国有地になっているそうです。 児島家の末裔と言われる地元の方が手入れしていたそうですが、その方が亡くなったため、今は荒れるに任されているそうです。 なんとか保存してもらいたいですねえ。 |
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![]() 別所村道元標 |
別所公民館の前に、半ばアスファルトに埋もれた別所村道元標がありました。 ということは、別所公民館が、かつての別所村役場だったのでしょう。 |
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![]() 弁慶地蔵 弁慶の母が別所の生まれ 書写山に預けられた弁慶が、別所の庄屋の娘と 一夜を共にしたのが、この地蔵堂だそうで。 |
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西国街道をゆく 続く | |||
2023.4.30作成 | |||
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