姫路城中ノ門跡
 年は明けて令和5年3月、西国街道の旅を再開します。
 まずは姫路まで移動しまして、姫路城を見物することにしました。

解説板

姫路城マンホール
 姫路城に来るのは、おそらく20年ぶりくらいです。
 ずいぶん長い間ご無沙汰してました。

姫路城内堀

三の丸からの姫路城天守
 姫路駅から歩いて姫路城に向かいます。
 平成の大改修を終えた天守が輝いておりました。

西の丸 ワの櫓(奥) カの櫓(手前)

姫路城天守群
 姫路城は羽柴秀吉の居城でしたが、現在の姿になったのは、関ヶ原合戦後、池田輝政が播磨一国52万石で姫路城に入城し、改修してからです。
 池田家の後、本多忠政(本多平八郎忠勝の長男)が15万石で入り、西の丸を整備して完成しました。

菱の門
 菱の門からは有料エリア。
 菱の門は華燈窓のある格式高い門です。

菱の紋が門の名前の由来です。

三国堀と天守群
 菱の門を入ると濠があります。
 三国濠の由来は、池田家が支配した播磨、備前、淡路に由来します。 
 三国濠脇には埋門形式の「るの門」があります。

るの門

いの門
 正式な大手ルートは「いの門」を抜け、三国濠の向こう側をぐるりと回った「をの門」になります。
をの門跡

西の丸から上山里曲輪を見る
 我々は西の丸経由で本丸を目指します。
西の丸からの天守群

剣酢漿草の門
酒井家の紋です。
 西の丸には城外側に多聞櫓が連続していて、見応えがあります。
西の丸多聞櫓群と天守群

多聞櫓内部
 多聞櫓の内部は居住スペースになっています。
 西の丸は、本多忠政の嫡男、本多忠刻に嫁いだ千姫(徳川秀忠娘)の化粧料で整備されたといわれており、千姫の侍女たちが住んだようです。

西の丸から

将軍坂
 西の丸北門跡から将軍坂を登り、「はの門」をくぐります。
はの門

門の礎石が石灯籠流用したものです。
 「にの門櫓」が、頭上からにらみを効かせています。
にの門櫓

ろの隅櫓
 くの字型に曲がった「ろの隅櫓」がありました。
 地形に沿ったために歪な形になっています。

にの門へ向かいます。

にの門
 「にの門」にやって来ました。
 櫓と一体化しており、櫓の下をくぐり抜ける仕組みです。

天守が近づいてきました。
 「はの門」をくぐります。
はの門

油壁
 城内で唯一の築地塀である油壁がそびえていました。
その横には乾小天守

姥ヶ石
 老婆が石臼を献上したとの伝説が残る、姥ヶ石がありました。
 油壁脇の水一の門、水二の門を抜けます。

水二の門

様々な家紋が見られます。
 水二の門の屋根には、様々な家紋の軒瓦が使われています。
 蝶紋や、七三桐紋があり、池田家時代のものでしょう。

いよいよ天守内部へ

水五の門
 天守内部は外国人客が多く、ゆっくり見ることができませんでした。
天守群から出てきて、あおりのショット

上山里曲輪の下段石垣
 本丸御殿のあった備前丸、上山里曲輪を抜けて、下の山里曲輪にやって来ました。
 この上山里曲輪の下段石垣は古風で、羽柴秀吉時代のものとされ、官兵衛普請の石垣とも言われています。

ちの櫓

岩盤に直接石を積んでいます。
 上山里曲輪の下をぐるりと回ります。
太鼓櫓と腹切丸

内堀
 三の丸(大手ルート)と、搦め手ルートを遮断する内堀横を通ります。
 間もなく、姫路城の搦め手ルート、「との四門」前に出ます。

帯の櫓と「との四門」

腹切帯櫓丸と
 との四門からは、本丸北側の腰曲輪へと向かうことができますが、封鎖されていました。
との四門
 そのまま城の北側に回ります。
 内堀と中堀の間、勢隠曲輪と呼ばれる曲輪です。
 このアングルはあまり紹介されてないと思います。

北勢隠門跡
 北勢隠門から中堀の外に出ます。
中堀

清水門
 北勢隠門のすぐ外に、清水門があります。
 ここから外堀外へと出ることができます。
 ここからの天守群もなかなかかっこいいです。

中堀沿いに歩きます。
 中堀沿いをてくてく歩きます。
唐破風があるので、北の正面といったところ

中堀はあまり幅はないですが、立派な石垣が積まれています。
 お城の東側まで回って来ました。
東側から見る天守群
 正面から見る天守は安定感がありますが、このアングルではのっぽに見えますね。
 喜斉門から城内に攻め入る時は3方からの十字火線に晒されます。

喜斉門跡
 だいぶ日も暮れてきました。
 宿に引き上げることにします。
お城を十分堪能できました。
 明日は街道を歩きます。

作事曲輪(現:動物園)の外から、三の丸「らの櫓」跡、天守を見る。
西国街道をゆく つづく
2024.9.29作成
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