鯉喰神社を通過し、山陽自動車道の高架下をくぐります。
 

是ヨリ北 帝釈天 15丁
嘉永3年の道標
 そこから街道は北に折れます。
 県道270号線を跨ぐと、古墳がありました。

造山(つくりやま)古墳
 造山古墳は、前方後円墳で、長さは360mと全国4位の大きさがあるそうです。
 大和朝廷と比肩するほどの権力者、吉備国の大王が埋葬されているのではないかと言われています。

埋もれて読めない道標

風化して読みにくい道標
 街道はやがて県道270号線と合流します。
 そこからすぐに旧稲荷道との交差点があります。

大きな道標
左 いなり?
 県道を進むとすぐに総社市に入ります。
 手頃なお店がなかったので、ラーメン夢民でお昼ご飯にしました。

お昼ご飯

をかやま(岡山)やかげ(矢掛)あしもり(足守)
矢印でかかれた珍しい道標
大正時代のものです。
 備中国分寺の五重塔が見えて来ました。
 奈良時代に建てられて廃寺となっていた国分寺を宝永頃(1710年頃)に再建したお寺で、立派な五重の塔もその時のものです。
 創建当時の敷地とほぼ同じ位置にあるので、この辺りの西国街道も、奈良時代の旧山陽道に沿っていると思われます。

備中国分寺
奈良時代から続くお寺です。

また大正時代の道標
 はっとり と書かれた道標がたっていました。
 
 周りに高い建物がないので、五重の塔の存在感はなかなかのものでした。
 ひたすら西に向かいます。
梅が綺麗

三宅酒造さん
 街道沿いに、小さな造り酒屋さんがありました。
 三宅酒造さんで、現役の蔵です。明治38年創業です。
 この辺りは間の宿だったようで、石碑と解説板がありました。

間の宿を示す石碑
 街道沿いに、大正年間に建てられた立派な道標がありました。
国分寺への道標

宿寺山古墳
 奈良時代に国分寺が置かれたほどの場所だけあって、街道沿いに古墳が多いです。
国分寺とお別れ

東 まかね
南 すもうとりやま
の新しい道標
 真新しい道標がありました。すもうとりやまにも古墳があります。
 その先には金比羅さんの石灯籠がありました。
 明治時代の古民家がありました。
明治時代に建てられた入母屋造りの民家

指さし案内の道標
南にむかって くらしきがあります
 古民家近くに辻があり、くらしきへ向かう道を示した道標がありました。

山手村のマンホール
 この辺りは平成の大合併までは山手村でした。
ブルーチップって懐かしすぎ
 西郡には一里塚がありました。
 かつては松が植えられていて「一里松」と呼ばれていたそうですが、昭和30年代に枯れてしまったそうです。

西郡の一里塚跡
 一里塚跡の石碑の裏に、小さな社がありました。
お社

公民館?
 道は登りになって県道270号線と再び合流し、小さな峠を越えていきます。
地神

清音村のマンホール
 峠を越えると、清音ふるさとふれあい広場の前に出まして、ここから旧道をたどります。
 ここも平成の大合併までは清根村だったところです。

左 大覚寺 道標
 藤原為貞宝塔印塔がありまし。
 北東150mの墓地から移されたそうですが、藤原為貞がどういった人物なのかは分からないそうです。
 嘉暦3年(1328年)のものです。
 切りがいいので、本日の街道旅は清音駅までとしました。

清音駅

伯備線の電車
 清音駅は井原鉄道が乗り入れているので、地味に乗換駅なのです。(無人駅です)
 井原鉄道は西国街道沿いを走っているため、また乗車することになるでしょう。

こちらは井原鉄道の車両

特急やくも
 特急やくもが通過していきました。
 そう言えばやくもは新型車両を導入予定ですね。

岡山電車区定番の黄色の電車

県庁通停留所
 岡山まで戻りまして、岡電東山線で県庁通りまで乗車します。
 昭和44年創業の山珍さんで、豚まんじゅうをいただきました。
 551蓬莱とは又違った感じですが、おいしかったです。

山珍

豚まんじゅう

岡山城天守
 岡山県立図書館前を通過して、岡山城までやって来ました。
 とはいっても図書館もかつての二の丸内なのですが。
 ここにあった外下馬門跡から、二の丸内屋敷へと入ります。

外下馬門跡

岡山城内堀
 内下馬門跡を通って本丸へと入ります。
内下馬門跡
 城の正面玄関なので、巨石が使用されていました。
本丸中ノ段石垣

本丸不明門(復元)
 本丸下の段から、中ノ段に入ります。
 中ノ段には岡山藩の政治の中心である表御殿がありました。

不明門

本丸搦手門
六十一雁木上門
 不明門を入ると本丸上の段で、かつては藩主が暮らした奥向きの御殿がありました。
 岡山城天守は先の大戦で消失しましたが、望楼型天守で5角形の天守台の上に建てられていました。

岡山城天守と付櫓

天守最上階からの眺め
 今は鉄筋コンクリートで外観復元されていて、内部は展示施設になってます。
 岡山城は大きく宇喜多家・小早川家による造作と池田家による造作があり、宇喜多家によると思われる石垣が土中から発見され、一部展示されています。

本丸中ノ段の埋没石垣

月見櫓
 岡山城の数少ない現存建築である、本丸月見櫓です。
 城外側2重2階、城内側は3重3階となっていまして、城内側の最上階は開放的な造りになっています。
 岡山城は狭い本丸に御殿を処狭しと建て並べたので、この櫓も望楼施設として利用されたのでしょう。

天守北側からの眺め
五角形の天守台がよくわかるアングルです。

下の段からみる月見櫓
唐破風が格式を示してます。
 岡山城は、宇喜多家・小早川家時代は50万石、池田家時代は31万5千石の居城として整備され、かつてはかなりの規模を誇っていました。
月見櫓と天守
お城らしい重厚感があります。

祖廟跡
 本丸のほか、祖廟跡の石垣や、西の丸西手櫓が現存するのみです。
西の丸西手櫓

西の丸西手櫓
 昔、西の丸西手櫓の西側にはビルが立っていて見えなかったのですが、今は撤去されて見えるようになっています。
 西の丸西手櫓は、廃校のなった小学校の校庭にあります。
 ぶらぶらと岡山市街を歩いて宿に帰りました。

禁酒会館ってなに?

岡山城中堀跡

消火栓のマンホール
西国街道をゆく 続く
2025.10.19作成
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