講堂
 2024年10月、西国街道の旅を再開するため、岡山に向かいます。
 途中、相方さんのために閑谷学校を訪問します。

講堂
付属の白壁の建物は、藩主訪問時の
休憩室だとか。

講堂内部
 閑谷学校は、池田輝政の孫である池田光政公の命により、寛文10年(1670年)に建てられました。
 当時としては珍しく庶民にも開かれた学校でした。
 現在のような備前焼瓦の立派な建物になったのは、1702年頃のことです。
 閑谷学校は紆余曲折あったものの、教育機関として継続し、昭和39年に和気高等学校閑谷校舎としての役割を終えるまで続きました。

飲室(休憩室)にあるいろり
炭火以外の使用を禁止すると刻まれています。

立派な垂木です。
 資料館を見学した後、岡山市内の宿に向かいます。
閑谷中学(高校)時代の校舎
資料館となっています。

清音駅
 翌朝、快晴になりました。
 伯備線で清音駅に向かい、西国街道の旅を再開します。

旧 清音村のマンホール

高梁川
 高梁川を渡ります。
 遠くに井原鉄道の鉄橋が見えます。
 川を渡ると倉敷市、旧真備町に入ります。

井原鉄道鉄橋

一里塚跡
 橋を渡って堤防から降りたところに、一里塚跡の石碑が立っていました。
 ゴミステーションの横にあって目立ちませんが・・・・
 一里塚前を右にカーブすると、西国街道の宿場町、川辺宿です。

川辺宿

旧 真備町のマンホール
 川辺宿は、高梁川と小田川の合流地点にあり、水害に遭いやすい場所にありまして、2018年にも水害に見舞われています。
 そのせいか、空き地や新築の建物ばかりで、古い建物はありませんでした。

本陣跡
明治26年にも水害に見舞われ、
資料等を失っているそうです。

脇本陣跡

 川辺宿は江戸時代を通じて岡田藩1万石の領地でした。
 藩主は豊臣家に仕えた伊東家で、これも幕末まで続いています。
 藩祖伊東長継は、豊臣家貴母衣衆、大坂七手組でしたが、石田三成の挙兵を徳川家康に通報したほか、大坂冬の陣では豊臣方でしたが、城内の情報を徳川方に通報した功績が認められ、大坂夏の陣後、改めて旧領を与えられています。

現在の宿場の様子

10月なのに朝顔が咲いてます。
 この辺りは水田地帯です。
稲刈り前の田んぼ


吉備公墳石碑
 さて、街道を先に進むと、小高い丘があります。
 ここに吉備大明神(吉備真備公)のお墓があり、神社に祀られています。
 吉備真備はこの辺りの出身でした。
 吉備真備は西暦695年生まれで、遣唐使にも留学生として同行した後、聖武天皇や孝謙天皇に仕えて右大臣まで出世しました。

吉備公墳への道

箭田一里塚跡
 吉備公墳前を通過してすぐに一里塚跡がありました。

熊野神社鳥居
 3月にも西国街道を歩きましたが、この吉備の地(備前・備中・備後・美作)は、古代から栄えていたようで、あちこちに古墳や旧蹟があって面白い場所です。
井原鉄道が走っていきました。

橋が見えて来ました。
 琴弾橋が見えて来ました。
 この近くの巨岩の上で、晩年の吉備真備が琴を弾いたという伝説に由来する橋です。

琴弾橋というしゃれた名前です。

天気よすぎて正直暑いです。(笑)
 この日はかんかん照りで、10月だというのに結構な暑さでした。
 街道は国道486号線となり、まもなく倉敷市を出て矢掛町に入ります。
 矢掛町に入ると、またも吉備真備を祀った吉備大臣宮がありました。

こちらが琴弾遺跡碑

吉備大臣宮入口

常夜灯
 街道は所々で国道を外れます。
 金木犀が香って秋を感じますね。

金木犀が咲いてます。

国指定 下道氏墓
 山の中腹に灯籠が見えます。
 これは下道氏の墓でして、江戸時代中期元禄12年(1699)に銅製骨蔵器が発見され吉備真備の父である下道圀勝、弟圀依が母の骨を納めたと刻まれており下道氏の墓所と判明したとの事です
 間もなく三谷駅の高架下をくぐります。
 井原線は国鉄末期に計画された路線だけあって、やたら高規格に作られています。

矢掛町のマンホール

井原線三谷駅

ご商売されていた感じのお宅
 街道沿いの民家を見てるとなかなか楽しいです。
鶯と梅

柿がなってます。
 しかし田んぼばかりで日陰がないのが厳しいです・・・

井原鉄道の車両
気動車です。

キウィができてます。
 街道は茶臼山にぶつかり、山裾を回り込みます。
 道標がありました。
 今頃気づいたのですが、茶臼山には毛利元就の四男、穂井田元清が築いたお城があったんですね〜
見に行けばよかった。

道標
左 大坂道
右 玉しま道
 国道沿いの金網の向こうによく分からない石碑がありました。
 街道は国道をはずれ、矢掛神社の前で左に折れます。

矢掛神社参道

矢掛神社の石碑
 矢掛神社(郷社と書いてます)の碑を見て、小さな橋を渡ると、いよいよ矢掛宿です。
みやのまえ橋を渡る

矢掛宿本陣の案内板
 宿場町の雰囲気が出てきました。
矢掛宿マンホール
 いよいよ宿場の真ん中までやって来ました。
 東海道関宿ほどではないですが、なかなか立派な宿場町です。

脇本陣
高草家住宅

矢掛ビジターセンター

立派なむくり屋根の門です。
 脇本陣は入れなかったのですが、本陣は内部見学できるので、入ってきました。
 本陣、脇本陣が残り、どちらも国重要文化財に指定されているのは、ここ矢掛だけだそうです。

本陣
石井家住宅

中土間
母屋は安政2年(1855年)築
本陣の建物は天保3年(1832年)築
他に酒造蔵などがあります。
 石井家は寛永12年(1635年)に本陣職を命じられました。
 本陣には薩摩の島津家、長門の毛利家などが利用しました。
 また、福山藩主阿部正弘や天璋院篤姫が泊まった記録があるそうです。

蔵と中庭

御成門
殿様はこの御成門から駕籠ごと入り、
式台で駕籠からおりました。
 本陣では利用のつど、玄関に看板を出して知らせていました。
 看板の一部が展示されていました。

伊達遠江守(宇和島藩伊達家)
松平肥後守(熊本藩細川家)
有馬中務大輔(久留米藩有馬家)
ほか、勅使も利用したようです。

殿様がいた上段の間
 500円と手頃なので、ぜひ見学してみてはいかがでしょうか?
外からみた御成門

宿場のはずれ
 矢掛宿を通過しました。
 西のはずれの高通川を渡ります。

かつては徒渡しでした。
隣村との境でもあり、明治に架けられた橋は
境橋転じて栄橋になったそうです。
西国街道をゆく 続く
2025.11.09作成
2024年ツーレポトップへ
Home