金比羅宮常夜灯
 さて、矢掛宿を後にして先を急ぎます。
 街道沿いらしい常夜灯がありました。
 貴布祢神社への道標がありました。
 元禄3年(1690年)創建の神社で、この道標から南に約1kmのところにあります。
 街道は国道486号線になっていまして、歩道を西へと歩いて行きます。
 旧浅海村にある才の前下座所跡と書かれた石碑がありましたが、謂われは分かりませんでした。
 続いて弘化4年(1847年)と書かれたよく分からない石碑もありました。

弘化4年の石碑

民家
 山陽道 毎戸一里塚跡を通過します。
 ここから街道は国道外れて旧道になります。
 そこは小田堀越の間の宿で、宿場らしい雰囲気が残っていました。

宿場らしい間口の狭い民家跡
 お店から出てきたお姉さんが、宿場について説明してくれました。
 寛政元年の記録では400軒あまりの家と、1400人ほどの人口があったそうです。
 

旧銀行?

立派な看板建築が残っていました。
 当時は山陽道の間の宿として栄えており、明治・大正期に流行した看板建築の商家が立ち並ぶ賑やかな町だったそうですが、山陽本線が海側を通ったこともあり、寂れてしまったそうです。
こちらも看板建築

棟瓦が装飾入りなのです。
写真では見辛いかも
 間の宿を通って国道に戻ってきました。

井原鉄道
 堀越の間の宿を抜けてしばらくいくと、街道は井原鉄道の下をくぐって北側にでます。


高越城趾の看板
 再び国道に合流してしばらく行くと、高越城趾の看板がありました。
 高越城は備中国荏原荘を治めた備中伊勢氏の居城で、最近の研究では、北条早雲こと伊勢新九郎長氏(盛時)は、ここで生まれたそうです。

井原鉄道の下をくぐった先の山が、
高越城

早雲の里荏原駅
 汽車の本数が少ないので、早雲の里荏原駅から汽車に乗ります。
ホーム

3面3線の交換可能駅です。
 井原鉄道井原線は、昭和41年に国鉄井原線として建設が始まりましたが、昭和55年に国鉄再建法により、建設が中止されました。
 昭和61年、井原鉄道が設立されて昭和62年に建設が再開、平成11年に開通しました。

2両編成がやってきました。g

列車内
 非電化のため、1両または2両編成の気動車がワンマンで運行されています。
 いやはや、10年前には井原鉄道に乗車するなんて、夢にも思ってなかったです。

清音駅にて

岡山駅にて
JR四国 8600系
 清音から伯備線を経由して岡山駅まで戻りました。

清音駅にて
 翌朝、再びJRで清音駅までやって来て、井原鉄道に乗車市します。
 早雲の里荏原駅までやっってきて、街道旅を再開します。

神辺方面へと去って行く汽車

やぎがいました。
 ひんやりする朝の空気の中を歩き始めます。
井原市マンホール

早雲の画像
 すたこらと歩きます。
むくり屋根の旧家
 山陽道の一里塚跡(青木)の碑がありました。
 街道を歩けているようです。

この辺りも大棟に装飾瓦が使われていました。
しかもむくり屋根

井原市マンホール

影が長く伸びます。
 綺麗な青空の下を歩きます。
いい天気です。

井原市マンホール
 街道は一瞬国道と合流して再び離れます。
 ここは井原市今市です。

足次神社
 この辺りも宿場町らしい風情があるのですが、七日市宿はもう少し先だと思うのですが・・・
昭和のお店
道祖煎餅の文字がうっすらと見えます。
どんなお菓子だったんでしょうか?

ビューティーサロン白バラ
 昭和の頃は栄えていた商店街らしいのですが、今は静まり帰ってます・・・
 道の両側にあるお家は立派なものばかりです。

昭和40年の尾神橋
 昭和28年まで存在した西江原町の中心街だったようですね。

中堀城跡の碑
 甲山八幡社の入口までやって来ました。
 ここには小堀遠州が奉納した石灯籠があるようです。
  神社の入口横には中堀城跡の碑がありました。
 那須光隆が築城した平城のようです。
 光隆より4代目の政隆は足利尊氏の九州下向の際に歓待したため、下野国で領地をもらったそうです。

火の見櫓

調べてみたら平櫛田中という彫刻家の
生まれた場所らしいです。
 田中生誕地バス停です。
 田中ってダレ?(笑)

街道らしいクランク
 昭和の雰囲気が残る町って素敵ですね。
公民館?

大正15年の常夜灯
まだ、街道が現役だったんでしょうか?

昭和の建物ですね。
看板建築ですね。

こんな錠前、今は見ないですよね?
西国街道をゆく 続く
2025.12.31作成
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